強迫と就労(本気で書いた小説)
強迫と就労(本気で書いた小説)
野村 航
(初稿2005頃、追って校正続ける。2017年8月3日完成)
1
面接の帰りに途中下車をして、あまり家から出ていなそうな無職の友人の家に寄った。家がなんとなく暗い感じがする。出てきた彼に声をかける。
「いま面接に行ってきたんだ、一緒にがんばって就職しないとねぇ」。
自分への元気付けでもあった。彼は昔からの知り合いだった。人とあまり会っていないように感じられ、僕は彼に複数回会いに行った。彼からはさして響くものもないような、力ない薄笑いが帰ってきた。
「仕事のことなんて、別にたいした問題じゃない」。
そう言う彼はもう一年近く無職なのだった。彼も僕同様、現状に対して何も感じていないはずがない。話している最中、通りがかったノラ猫に異常と思える怒り方をした。ボソボソと話していた彼が突然怒鳴る。
「こらぁ!!勝手に庭入って来んな!!」
猫はただちょっと歩いていただけのように見えた。本当にたいした問題ではなく、何も感じていない穏やかな心持ちなら、猫相手にそんな激昂はしないのではないか。こちらを一瞥したのちホテホテと退散する猫の姿は『へーへー、すんませんね』とでも言っているように見えた。その身のこなしは彼よりもはるかにスマートに見え、金持ち喧嘩せずとでも言わんばかりだ。僕と彼の間に変な間が生じた。
彼の態度に驚くと同時に、僕は何か表現しにくい感情を抱いた。彼は無関心を装おうが、やはり心はささくれ立っている。しかしそれが判っても、だからどうすればいいのだろう。それに僕の心はもしかしたら、“あぁ、俺はこいつよりはマシだ”という馬鹿らしい安心や優越感を含んでいるのかもしれない。そういう表現の難しい感情が、ない混ぜになった。とはいえ、僕は決して自己満足のために彼に会いに行ったわけではなかった。僕は人付き合いが苦手で、人といるといろいろ気になってしまう。沈黙が不安で色々話し続けるため、ひょうきん者と思われることもあるが、実際は会話は得意ではない。安易な自己満足を求めるならあまり進んで人と会おうと思わない。一人でヘッドホンでもして世間を遮断するか、あるいは家に帰ってインターネットかベッドでおやすみだ。それでも会いに行ったのは、僕にとっても彼にとっても、それが何かの足しになるんじゃないかと思ったから、だろうか・・・。
いま日本中で僕や彼のように、こんなにも中途半端に嫌な感触を抱える、なんとも冴えない人たちがどのぐらいいるのだろう。それはきっと増えているが、内向的な僕らは、ほとんど世界の表面に出てこない。無職や引きこもりは、ニュースではニート等と取り上げられ社会問題として聞くが、表面に出てこない彼らを身近な存在として感じる人間はどのくらいいるのだろう。テレビの中で語られ、社会問題になっているらしいけど、まぁどこか、別のところの人のこと。関係ないし、そんなことに一々構っていられない。でも、表に出てこないから目立たないだけで、実際は身近に結構いる。同じクラスで席を並べていた普通の同級生に、ポツポツといる。知られることの少ないそのことを、僕はいくらか知っているのだった。そして生真面目で臆病な、彼らや僕が抱える自己に対する否定感や他者に対する怒りや諸々の不全感は、その全てが自己責任なのだろうか。もちろんそれは大いにある。しかし彼らより、僕より、ずっといい加減でズルい人間もいくらだっているはずだ。関係ないと思っている人のなかにもたくさんいる。 “でも、やっぱり来なければ良かったかな・・・。” 僕はスッキリしない頭で思った。 「猫嫌いなの?」 突然猫を怒鳴りつけた彼に声をかける。
「いやぁ、そういうわけじゃないけど・・・」。
彼は僕に向き直り、気まずそうに愛想笑いした。
「あいつ、しょっちゅうウロウロしてるんだ」。
「あー、ハハハ・・・」
社会にぶつかって行けず、人に当たることも出来ない、気の優しく、あるいは気弱な彼と、その性格を一層助長させる無職という状況。無職は人から自信を奪い、自信を奪われると行動力が鈍る。それらが重なり合って悪循環になり、螺旋的に深みにはまって行く。毎日が行き詰まったような息苦しさで、その感情をぶつける相手もいない今の彼は、おそらく自宅で所在無く、時に自分を責め、時に現実逃避し、人間にも社会にもぶつかっていけず、溜まったストレスをノラ猫にぶつけざるを得ないのかも・・・。そういう彼に目を向ける人間は今、家族以外にどれくらいいるのだろう。そんな彼が、現状を本当に『たいした問題じゃない』と思っているはずがない。そう強がり、あるいはそうやって逃避して、そう思おうとしている。考えないようにしている。僕はそのように感じた。それはまた、自分を振り返ったときの、自分自身の姿でもあった。
彼がそうだと言うわけじゃないが、人生を捨てたようなフリをしている人間は本当にたくさんいる。捨てたフリをした彼らは、フリをしているだけだから、実際は不満タラタラ愚痴タラタラでねじれた笑い方をする。実は不満を抱えているくせに、それでも『人生なんてどうでもいい』と言い張る人間も、いざ野垂れ死ぬことになったとき、『あぁこれで良かった、良い人生だった』とはきっと感じない。思うに、漠然とした何かを呪いながら、不満と後悔に支配された感情の渦にまみれながら死ぬ。不条理な犯罪に巻き込まれて殺されたり、飢餓や戦争で納得できない最期を迎える等の場合を別として、死ぬ時はその人の人生が集約されると思う。不満や後悔や憎悪を人生の最終回答として、今一度噛みしめながら死ぬのはかなり嫌だ。 また、僕の心が少しでも開放されたのも結局は人とのつながりであり、それは昔の恋人や、親身になってくれる友人や親であった。人付き合いの苦手な僕も、多くの人たちに感謝する以外ないのだった。だから、こもりがちで無感情なフリをしている無職の彼にも時々会いに行った。もし彼が誰にも会っていないのなら、どういう形であれ、―――例え自分が最後まで責任を持てようと持てまいと、口を利く相手が多いことは決して悪いことではないと思った。自分が塞ぎこみそうな時も、そうして関わってくれた人たちに、最終的には支えられた。だから僕も出来るだけ人にそうしたいと思った。それらをして、だから出来るだけがんばろうと思い、一緒になんとかやっていこうと声をかけてもみる。しかし調子の悪いときの自分も含めて、ある種の人たちは何故か薄ら笑いを人生の指針とし、時に不思議とも思える頑なさで幸せを否定する。幸せな感情を否定するとは突き詰めると不思議だが、その理由はきっと世間への憎しみや復讐心なのだ。自分を不満の底へおとしめたのは世間だと自らを思いこませ、それを憎むことで辛うじて自らを立脚しようとする。一般的には、簡単に逆恨みというのかも知れない。薄ら笑いは憎しみの中でどうすることもできない所から出てくる諦念の表情。そうやってヘラヘラ笑ってでもいなければ、辛すぎてたまらない。自分が立脚する最大の理由が世間への復讐心や憎しみによるものであるのなら、薄ら笑いをして人生を捨てたフリをする方法を取ってでも、憎しみに固執しなければならない。立脚する根本を捨てたら、自分は倒れてしまうのだから。そう思い込む。そのおかしな薄ら笑いの裏には『こんなはずじゃなかったのに』という不満や怒りや憎しみが込められているのではないか。
僕は少し話を変えてみた。
「最近昔の同級生とか会ったりする?飯田とか」。
「あー、会わないよ全然、誰とも会わない」。
彼は無表情で答える。
「・・・そうなんだ、この前同窓会楽しかったよ。多分またあるから今度行こうよ」。
「行ったってしょうがないよ・・・。」
僕は全く陰気なのに、先日行われた同窓会の幹事の一員として引きずり出されていた。仲の良い仲間から『一緒にやろうよ』と頼まれたのだった。面倒くさいし、自分の現状を振り返ると恥ずかしくて気が進まなかった。しかし僕が自分の状況をそれとなく話すと『じゃあ時間あるんじゃん、手伝ってよ』と、彼女はとても気軽に言うのだ。それはすごく自然な笑顔で、聞きようによってはとても失礼にも思えるのに、僕は何かホッとしてしまい『わかったよ』と答えたのだった。仕方なくやってみると、大変だったが思いのほか楽しかった。そんな中、参加依頼の声をかけて回るうちに、不参加者の彼を含めたくさんの同級生と会ったり話したりしたのだ。
「・・・まぁね、僕もそう思うけどさ、でも意外と気晴らしになったよ」。
「・・・」。
彼はうつむきがちに苦そうな笑みを浮かべ、そして何も言わない。
「ハハ・・・」。
僕の口からは、間を埋めるための愛想笑いが漏れる。“お前無職で会うのって恥ずかしくないのかよ”、それくらいのことを言おうとしているのかも知れない、と思った。 “よく平気な顔して参加できるよな、無職のくせに”って言おうとしている?いや、それは僕自身の、自分に対する気持ちの表れ。自分の自己否定的な感情を、彼の思いに反映して投影している。というか僕は、何かにつけ自己否定的な感情が降って沸いてくるのだ。だから同時に、“彼は人に向かってそういうことは言えないだろうな”、と思った。そして彼はやはり何も言わず、力なく笑うだけだった。
僕は油断するとすぐに閉じこもる。閉じこもっても生きていけるのなら構わないのかも知れない。しかし、閉じこもって生きていくことは難しい。だから、自閉しないように、自分のためにも出来るだけ人に声を掛ける。そして僕自身、彼と会うことで彼からも力をもらえたら、とは思った。同窓会の幹事仲間の件も、友達がせっかく僕を誘ってくれたのだから、暇だし、やったほうがいいと思った。
その後も話はあまりはずまなかった。閉鎖的な彼に、本来閉鎖的な僕がそうでないスタンスを取って無理矢理話しかけてみても、実際二人とも現状パッとせず、彼の無表情と僕の苦しい愛想笑いに集約されていくのだった。帰り際、気弱な僕は彼に聞いてしまう。
「こうやってたまに俺が来ると迷惑?実はウザイ?」。
自信がなく、すぐ確認したくなる。笑いながら聞くと、
「そんなことないよ」。
彼は小さく笑いながら言った。僕はホッとして、笑顔とカラ元気で言った。
「またそのうち、たまには寄るよ。そのときは仕事を決めてるようにがんばるよ、君も元気でね」。 彼はもう一度小さく笑った。それは小馬鹿にした笑いではなく、小さいが感情が見えて僕も少し嬉しくなり笑った。それはお互い素晴らしい笑顔ではなかったが、今の僕らに、ないよりはあった方が良いもののように思えた。それを見れたことは、見れないことよりも少しはマシな気がした。僕と彼が、お互い別々に自閉しているよりは、少しは良いような気がしたのだ。だから僕は会いに来て良かったんだと思った。
「またね。」
「うん。」
二人は小さな笑顔を交わし、僕は彼の家をたち、彼は玄関の引き戸を閉めた。引き戸を閉めて日常に帰っていく彼は今からどうするのだろう。そして僕は。 帰宅のため、駅に向かって20分の道をトボトボと歩き始める。一人になるとやはりホッとする。同時に心のギアが一段下がるような感じになる。緊張が取れてリラックスすると同時に少し憂鬱になるが、それはある程度僕の基準なのだろう。昔すんでいた町、平日の昼間にトボトボと歩き、取り残されたような気分。さっき見た彼の笑顔もそれによる少しの温かい気持ちも、あっという間に遠のいていく。少しゴチャゴチャした下町、景色も雰囲気もそれほど変わっていない。夕方になると、婦人や子供を中心に大変な賑わいになる大きな商店街も、今はまだ午後の昼下がりでガラーンとしている。昔っぽい酒屋や肉屋やスーパーに雑貨屋、それらの前を猫背でノロノロと歩いている。そういう自分に、なんだか現実感がなかったりもする。いや、痩せすぎの体がやけに重いので、僕は確実にここでモッサリしている。しかし、そこでそうしているのに、実は自分は何もしていない気がする。自分がそこにいてそれをしている、そういう当たり前の現実感が薄くなり、何か空白で空虚な気持ちになったりする。あるいは、この懐かしく好ましい下町の中に、無意味に立ち尽くし続けたい感情と、今すぐに違う場所に消え去りたい気持ち。自分が溶けて、空気のようにフワフワと漂い、そしてそれに混ざって消えてしまいたい。町や空気と同化して消えてしまいたい。自己の存在に対する不必要なほどの執念と、同時に感じる出鱈目かつ投げやりな感情。
人前では消極的なほどに隠しているが、僕は自分のことを年齢の割りには自己顕示欲が強く、自意識過剰なことを知っている。それらをして、子供っぽいと言われても仕方が無いということも。劣等感や特別意識、丁寧さや攻撃的感情、いろいろな両極端な事柄がゴチャゴチャと絡まって、螺旋的になったり複雑に絡まったりして、それらが僕を屈折した存在たらしめている。僕は屈折している。心の中は雑草の茂る廃材置き場のように、乱雑でありながら空虚で生命の躍動するような感じがない。その人気のない盲点のような場所の中に自分だけの基地を作り、身を潜め世界を睨んだり、廃材の陰に隠れて世界から逃げたりしている。うまく行かないことや、勇気のなさ、そこから来る無力感。裏返った破壊欲求、破滅思考。みんな分かってる。全部グルグル回って繰り返している。 ぼんやり歩いていると、着々と心が内側に向かっていくのが分かる。あぁ、誰にも会いたくない。今日面接を受けた会社も採用される気がしない。採用されても、実は行きたくない。怖い。『なんだそれ、それじゃあ何しに面接行ってんの?そんなのもう、お前なんか死んじまえよ』、呆れた声で誰かがそう言うのが聞こえる、気がする。やはり一人になると良くないのだろうか。懐かしい街並みを見ながら、僕の心は中学生の頃の自分を見ている。そのころ自転車で走ったこの下町。あのころの僕は人目に隠してたくさんの強迫観念を抱え、ありもしない罪悪感にさいなまれながら生活していた。それを隠し、まともなフリをして、それを押し通していた。間抜けなボケ役のフリをして好かれていた。思い出すと馬鹿らしい気持ちになる。怒りすら感じる。でも、そんなこと考えているわけでもない。ただボンヤリと心が内に向かい、二つの眼が単なる機能として景色を捉える。見えているけれどきちんと捕らえていない。しかし、懐かしいと言うことだけ感じる。そんななかで唐突に、ずっと昔の些細な失敗を思い出したりする。何の脈絡もなく思い出された無関係のそれは、僕を恥ずかしくてたまらない気分にして、また気分が沈んだりする。なんで今そんなことを思い出すのだろう。しかし、しばらくするとそれも薄らいでいき、再び心は内に向かい、景色はぼんやりとする。ユラユラと駅へ進む僕。 “あー、このままフラフラ歩いている中で、自分も気がつかないうちに車にはねられてしまったら‥‥”。 そんな思いが頭の中をユラユラ。でも自殺するほどの勇気もないし、バカさ加減もない。そんな破れかぶれ具合も破綻した倫理観も、追い詰められた病的心理状況も有していない。僕は、一線を超える人間の持つ異常さの、その何一つすら持っていない。そんなものは持っていなくても構わないが持っていない。結局、ただダウナーなだけの、ごくごく普通のただの人間。だから死ぬのも人任せだし、でも実際人に何かされたら腹を立てるし、しかし、とにかく自分では何もできない。僕は何もできない。歩いていて不意に車にはねられるのなら、それは僕のせいじゃない。もしも死にたいときにでも、それならば後ろめたくない。だって仕方ないもん。はねられちゃったんなら俺のせいじゃないもん。知らんがな。でも、本当は痛くてすごく嫌なんだろうな。俺は痛いのは特に嫌だから、じゃあ撥ねられるなら軽がいい、トラックは痛そうで怖いから、って、なんか矛盾してんなー、アハハハハ‥‥。‥‥あーぁ。
近くに、腰くらいの高さのブロック塀があるのが目に入った。僕は歩くのがしんどくなって、そこに腰掛けて休んだ。さっき会った友達との邂逅は、もうはるか彼方へ行ってしまった。 進歩したい。ここから抜け出したい。そう思って人と口を利くように心がけ、就職活動もする。僕を大事に思ってくれる友達を、できる限り大事にしようとする。しかし僕自身、どうしても鬱入り易く、気も弱く進歩できない。ただ、“もう少しなんだ“、そう思ってあきらめないで生きている・・・。だけどもう時間切れで終わってる思いがすることもある。僕も変わらない。社会や人にぶつかれない気弱な僕は、猫に当たる代わりに紙に当たって文章を書くか気休めにロックを聴く。インターネットするか現実逃避して寝る。油断をすればすぐ自閉。気を抜けばすぐ逃避。「なんで小説なんか書くか」って?「小説を書くのが本当に好きで仕方がないのか」だって?本当も何も、そもそも好きで仕方がないなんて、そんなわけないじゃないか。芸術って言うのはそこに自分が生きているからやるんだ。生きるためにやるんだよバカが。
七分休んで立ち上がり、コンビニで税込み八十四円の百%ジュースを買う。それが一番安くて、なおかつ虚弱な体に良さそうに感じたからだ。 だれにでも悩みはある。でもそんなことは関係ない。彼らが僕らを圧迫するように、僕らも彼らと無関係で嫌う。判らない人たちに僕たちのことは判らない―――僕らが彼らを判らないように。お互い判りたくもないだろう。あぁなんて寒い。不適応で弱虫で嘘つきの俗物、そして僕は、いい年してなんてみっともなく嫌な奴なんだろう。 店を出てジュースを一気飲み。頭がボワーッとして汗がにじむ。痛くなる目の奥をやり過ごし、飲み終わった紙パックをゴミ箱へ放る。気を取り直して駅まで歩き、そして家に帰った。
2
別の日。トボトボと職安に向かい、キリキリと検索し、重い気分で仕事の紹介を受ける。拭えない不安と、考えすぎで頭が朦朧とする。窓口に呼ばれ席へ向かうと係員の壮年が待ち構えているが、僕は彼と話をしたくなかったし、相対すらしたくなかった。自分から進んで、紹介を求めているのにおかしな話ではあるが、挨拶だけは最低限きちんとするのが礼儀。
「あぁ、よろしくお願いします・・・。失礼します・・・。」
イスにかける。
「はい、よろしくお願いします。で、今日は?」
「紹介を・・・」
そう言って見繕ってきた求人票を差し出す。
「あぁ、男性の事務職希望ですか、あんまりないんですよねー、経験はありますか。ほぅ、資格は色々持っているんですねぇ」。
「あー・・・」
かじりかけの簿記電卓パソコンに書道・・・。
「じゃあ電話して聞いてみましょう」
「あー・・・」
彼は受話器を持ち上げプッシュボタンに手をあてて、止めた。
「あ、そうだ、面接はいつでも大丈夫ですか」。
「あー・・・」
「あれ、これパートの求人だよ。いいんですか」。
「あー・・・」
「でもあなた、まぁ若そうだけど・・・」
そういって彼は手元の個人資料に目をやった。
「あ、27歳?年より若く見えるね。でも27じゃぁパートはまずいんじゃないの」。
「・・・」。
彼はコンピューターをいじった。僕の過去受けた会社の履歴などを見ているらしい。
「あぁ、いろんな場所のハローワークで登録してるんだねぇ。色々行ってんだ」。
「・・・」。
もともとロクな返事をしていなかったものの、返事をするのが面倒になってきた。
「でもね、あんまり色々行くより、腰すえて一箇所で、担当者つけて決めていくのもいいもんだと思うよ」。
「・・・」。
「あー、いろんな会社受けてんだねぇ、いままで全部駄目だったか」。
「はぁ~・・・」。
「でもパートより就職目指してるんでしょ」。
「・・・」。
「今まで就職目指してきたんだから、パートより就職で探して行ったほうがいいと思うよ」
「あー・・・。」
僕は何とも取れない返事をしてしまう。馬鹿にしているみたいになってしまうが、そういうつもりではない。
「うん?」
「でも、なんかできることを・・・。病気あるし・・・、難しいんです」。
彼を悪くは思わなかったが、面倒でしんどかった。27歳で何の立場もない無職の人間の言うことなど、だれも聞くはずがなく、意見する資格もないと思う。だから、あまり話をしたくない。自分の恥ずかしさを、自分はよく知っている。あるいは意識している。だから息が苦しい。心が自閉を求めているのを強く感じ、逃げ出したくなる。あんまりあれこれ話しかけてこないでくれよ。
「あぁ?うん?」
「・・・」。
「今日のこれはやめておいて、別のを探して就職でいった方が良いんじゃないかな」。
彼は小さく笑みを浮かべ僕を見た。僕は迷った。 “面倒だから彼に従って、今日はもう、このまま帰ってしまおうか。” そもそも、就職にしてもバイトにしても、どっちにしてもとても嫌なのだ。ただ怠けたいだけかも知れない。けれど、僕は人といることも、プレッシャーをかけられることもとても苦痛に感じる。そして些細なことにプレッシャーを感じる。気持ち悪くなって簡単には動けなくなる。緊張して、脇の辺りから変な汗がツルツルとこぼれた。胸が苦しく、頭がとても熱くなる。振動している感じがする。矢継ぎ早にあれこれ言われると、どうすればいいか判断できない。
「ね、また別の探して、あきらめないで就職で探した方がいいよ。」
「あーっ!!いいんで紹介してください!!」
僕はよく判らなくなってそう答えた。別に無礼な言い方をしようと思ったわけではないのに、相手を遮断するような言い方になってしまう。心はしばしば0か100かの二者択一になってしまう。それでもおさえて話している。抑えなかったら絶叫してしまいそうだ。このときの僕にとっては、このまま帰るのは明らかに負けだと認識され、それを選ぶのはマズいと思った。ようするに僕は、今回のアルバイトをすることでも怖いと感じていて、そういう気持ちを抱えながら紹介を受けに来た。彼は、就職をするために、“今日のパートの紹介はやめにしな”と言った。でも今の僕がそれに従った場合、それは、今日の日をウヤムヤにして逃げておくのと同じだった。いま決めるのが嫌だから、とりあえず先延ばしにするということだった。ていよく彼の助言に乗ったフリをして“そうですよね、やっぱ正規雇用で考えてみます”とでも言えば、この場は清々しく収まるし、僕も決断を先延ばしにして、ごく一時だけ気が楽になる。それは僕にとって一見楽なことだが、当然何もかわらない。いけないと思いながらも、明日も起きるのが遅くなり、昼間から一日くさくさとすることになる。なんとなくつけてあるテレビから午後一時のいつもの番組が流れ出すころには、終わっていく一日を感じ始め強く憂鬱になり、何とかしなければ何とかしなければと、一層思い悩むことになるのだ。 この日も重たい気持ちで行った職安で、こんなことが自分に出来るのだろうかと、限りない不安や恐怖や暗澹とした気持ちを抱えながら仕事の検索をした。今日もそうやって、やっと紹介を受けるところまでこぎつけたのに、ここで逃げたらまた同じになってしまう。そんなことを繰り返して一日一日が過ぎて行き、あっという間に時間だけが過ぎていった。またそれじゃいけない。そう思ったから勇気を出して、紹介してもらいに来たんじゃないか。だから、職安の職員が何と言おうが、受けなくちゃ駄目だ。
「アルバイトでも構わないんです。紹介お願いします。」
考えをめぐらし、少しだけ落ち着いた僕は、さっきより冷静に言った。
「え、受けるの?そうか、まぁ、パートしながら正社員さがすって言うのも大事だもんなぁ」。
彼は何も勘ぐることなくそう言った。
「じゃぁかけるね。」
プッシュボタンを押す。呼出音が聞こえる。“ツゥルルルルルル、ツゥルルルルルル・・・”、僕はドキドキする。“誰も出ないと良い”などと思ってしまう。 ツゥル、ガチャ。 中途半端なところで呼出音が途切れる。僕はドキリとして、暗い気持ちになる。相手が電話を取ったのだ。そんな当たり前の瞬間に、自分を裁く裁判が始まるような心地になる。職員が話し出す。
「わたくしハローワークの平井と申しますが、募集されております事務員のパートの件でお電話させていただいたのですが、え、あぁどうも、担当様ですか。いつもお世話になっております。実はですね、今回そちらの一般事務のパートに、面接を受けさせていただきたいという方がいらしておりまして、えぇ、えぇ。それでですね・・・」。
僕はぼんやりイスに座って、やや下の方を眺めている。もう僕にどうこうできることではない気がして、心を殺したようにして事の成り行きに任せるのみ。さぁ好きなように話をして、どうにでも好きにしろ。僕は投げやりな気分になる。そういう気分にしないと、ここに座っているのが辛い。
「それでですね、27歳の男性なんですがね、え?あ、ハイ~、27歳の男性ですね。あーあー。うーん、ただですね、当人色々資格も持っておりましてですね、やる気も有るのですがね」
「おれってやる気あんのか・・・?」。
下を向いたまま、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「うーん、えぇ、あー、そうですか。あぁー、ちょっと待ってくれますか」。
彼は受話器の通話口を手のひらで押さえて僕に言った。
「なんだかねぇ、やっぱり女性がほしいそうなんだよねぇ。そうやってはっきり言っているところはもう面接行っても大概無駄なんだよねぇ。今も他に女性3人紹介しているみたいだしねぇ。」
「あぁ、えぇ・・・。」
事務職を希望する自分は、このパターンを何度も経験しているからよく分かっていた。就職活動をするなかで、雇用均等と言っても実際事務員は女性を求める傾向が強いことを実感した。しかし普通のコミュニケーションすらままならない僕に、人々を激しく掻き分けて営業していくことなど考えられなかった。一人で物を運ぶようなドライバーなら、少しは気を使う量が少なくて済むかも知れないと思った。しかし僕は車の運転もできないのだった。運転をするたび、ほぼ確実に人を轢いたような気がして、心配で気になって普通でいられないのだ。 はじめは断られても電話を変わってもらって、食い下がったりもして見た。だが、そのようにはっきり女性採用を臭わすところは、実際相当なやる気でも見せない限り、採用は無理のようだった。また、普通の採用でもおぼつかないのに、鼻から取る気の薄いところへ激しいやる気を見せることなど、とても出来なかった。もし採用されたら一層のプレッシャーを感じることになる。 僕が納得したのを見て、職員は小さくうなずく。相手先の担当者に挨拶をし、電話を切った。僕に向き直る。
「やっぱり事務職って女性を取りたがる傾向があるんだよね。とくに今回パートだからねぇ」。 「・・・」。
担当の男は僕の苦手な、威勢が良くてやたらと声のでかい人だったので、話はよく聞こえた。 “まぁ、男女雇用機会ナントカですよね~、表向き、求人に性別は載せられないじゃないですかァ!でもね、実際面接に来てもらってもウチとしては事務のパートだし、女性をって考えてんですよねぇ。だからマァねぇ、面接来てもらうのはアレだけど・・・。えぇ、正直男性はちょっとアレですねッ”。
実は、僕は断られてホッとした。僕の就職活動は、断られるとホッとする活動なのだ。 “今日は最低限、やるべきことをやったんだ。それで断られたんだから僕のせいじゃない、仕方ないじゃないか。” 誰に対する言いわけだろう。実際、誰のせいだろうが、最低限のことをやっていようがいまいが、そんなことは問題じゃない。大事なのは結果として仕事をするかしないかだ。わかっている。しかし、僕は怖くて、断られてホッとしてしまう。今ですら危険な状況である上に、これから何年もたったときに、このままでいることの方がよっぽど怖いのに・・・。 係員に一言礼を言って立ち上がり、この後どうするか考え、立ちすくんだ。僕はこの段階で、もう正社員を100社くらい断られていた。それは電話の段階での不採用を含めてだが、不採用通知も50枚くらいになった。その上、そのころには、決まりかけていた正社員に対して、恐ろしくて気持ちが悪くてたまらなくて、断ったりしていた。入社決定した会社に、出社一日目の到着後程なく発作を起こして、入社手続きをせずに帰ったのだ。結局活動には何の意味もなく、もう駄目だと思った。 信用ならない人々と、そもそも信用ならない自分と、そういう、人間という恐ろしい存在に囲まれて一日中過ごす。一年中過ごす。もしかしたら何十年も過ごす。僕は少し人間が気持ち悪い。気持ち悪いし信用できない。自分だけでも気味が悪いのに、更に他人に囲まれて過ごし、しかもそれは金銭で結ばれた、社会的責任を背負った状態でだ。どんな些細なミスも許されない。 おかしな妄想ばかりが膨らみ、その妄想と、まだ背負ってもいない責任感で押しつぶされる。自分が就職できないのは、景気の問題などよりも、そういう自分自身の心的状態によるところが大きい。とにかく気味が悪くて怖い。人間といたくない。人間が恐ろしい、人間が嫌だ、人間が気持ち悪い、逃げたい。その心理に負けてしまう。だからもちろん自分のことも嫌いだ、生き物であり人間であるから。心底格好悪い。そんなことを繰り返しているうちに、自分には無理だと思った。思ったから何だというのか。無理でも、生きていくためにやらなくてはいけないのが仕事だ。しかし正社員を断ってしまってから、自分は何のために就職活動をしているのか判らなくなり、自分がバカに思えて一層自信がなくなった。気力もなくなった。ただただ、嫌な気分だった。何とかしてアルバイトでも、と思った。アルバイトに対してですら同様の症状は出てくるが、バイトのそれなら、まだなんとかなるレベルだ。しかし、それも一層うまく行かなくなってきた。さらに迫る加齢の恐怖。もうなんだかわけが判らない。かっこいい若者が「ニートなんて甘えだ」と断罪するのかも知れないし、それも正しいのだろうけれど、場合によってはそれ以上に、無職とは『恐怖』によると思う。普通に考えたら無職であることの方が恐怖だろうが、そうではない。漠然とした巨大な恐怖や完璧主義、あるいは人間に対する不安や不信、それに過剰すぎる責任感、そういった『恐怖』こそが無職やニートというものを生み出す一因だと思う。大きくて重苦しく、黒くて暗い何かがもやもやとしている。それはとても現代日本的だと思うが、それも総じて「甘え」だと切って捨てるなら、彼らはたいした人物だか想像力に貧しくもあり、嫌味でなくそれはめでたいことだ。嫌味でもあるが・・・。度合いによっては、そこに精神障害を含めた彼らの知らない世界があって、彼らは一生それを知らないで生きるのだ。彼らを傲慢で無知だと言い返す弱者はまずいない。だけど、彼らはもしかしたら傲慢で無知なのかもしれない。そうだとしたら本来、傲慢な彼らに遠慮する必要などないはず。怒りを感じる時、彼らは僕たちの敵だ!そして僕ら弱者はなさけない。あまりにも情けなさすぎる。
もう帰りたい。外に出たい。高層マンションの14階に上り、共同廊下の手すりから景色を眺め風を感じたい。僕は飛び降りない。だけど、飛び降りないけれど、飛び降りたときのシュミレーションをする。 “あー、いま飛び降りたら1・2・3・4・そろそろ地面でもう死んでいるだろうなぁ。どんな音がするんだろうか。死んだらどうなるのかな。輪廻するなら死に損だなぁ、ハハハ。あぁ・・・。“ そんなことを考え、景色を眺めると少し気が楽になる。いい景色をみて風が少しだけ気持ちよくて、一度自分を死んだことにしたりして、そうすると少し気が楽になる。 もう帰りたい。でも、帰ってもどうしようもない。 もう外に出たい。でも、出ても行くあてがない。 僕は求人先の紹介を受けていない。でも今日、これ以上探しても頭がいうことを聞かない気がする。しかし外に出ても行く当てはない。家に帰ってもいたたまれない。仕事をしないといけない。あぁ、もう一度探そう。 パソコンの仕事検索機に戻った。タッチパネルをさわり、年齢や条件を入力する。強迫観念が強くなっている今の僕は、タッチパネルを何度も押しなおしたり、リセットしたりしてしまう。僕の体を動かしているのは寸分の違いもなくこの僕だという、当たり前の感覚を揺るがされるような気分がして、それが生理的に許せなくなる。自分の体が僕でない僕により勝手に動いているような、あるいは自分でない誰かが僕の心に介在し僕を浸食してくるような、そういう気分にとらわれる。そしてそれはとても不快で、何としても回避したいと思う。疲れたり気分が追い詰められている時にそれは一層強まり、そういう時こそ、一層それが許せない。そして気になりだすと止まらない。本当の僕が嘘をついている気がする。ほんの少しの嘘でも許せない。何かの行動をしようとする時に、信頼していない誰かの顔がフッと浮かび上がってくる。僕の行動する瞬間に、狙い棲ましたかのように浮かんでくる顔。その顔が浮かんだまま行動を進めると、自分が汚されて奪い取られるような思いがする。そして誰かに乗っ取られて僕はもう僕でなくなり、例えば大事な人も愛せなくなってしまう。そのままにしておくと、誰かに自分の一生を乗っ取られてしまう。僕の中にある僕は、廃人になってしまう。とにかくあいつらに頭の中にいて欲しくない。追いやらないと、追いやらないと、頭からあいつらを追いやらないと・・・。とにかく自分の中に、自分と、自分が許したごくわずかな人間しか存在させたくないと強く思ってしまう。心や想像のレベルにまでそうやって執着してしまう。おかしいと思ってもそうなってしまう。人前ではおとなしくしているくせに、人をそこまで嫌悪する自分は一体なんなのだと思うし、自分を中心に世界が回ると思っているガキのようでもある。しかし心も体も自分の思うように動かなくなってしまい、自分自身どうにも出来ない。自分の意思を超えて、そうやって機能してしまう。潔癖的な強迫観念に覆いつくされてしまう。少し横になり休めば、そんな考えは一時的に視野の狭くなった病的なものだと判る。全く意味がない考えだと思い出し、そう感じられる。だが、気持ちが追い詰められるとそこから離れられなくなる。頭がジンジンして絞られているような心地。
職安の、エメラルドグリーンの色をした専用パソコン画面を見ると、吐きたいような心地になる。昔のように髪の毛をむしりたい心地になる。 求職検索用のパソコン画面からは、穴が開くほど眺めたおなじみの企業がズラズラ出てくる。たった一枚の求人票から、どんな会社かなんて判るはずがないのに、搾り出すように理解しようとしてしまう。もし理解できたと思っても、それは思い込みだ。なのにやめられない。判っているのに体でぶつかれずに考えすぎてしまう。そして疲れてバカみたいだ。 あぁ、もう見たくない。頭がどうこう思う前に体が拒否反応を起こす。盛んに口元を触り、目頭を押さえる。不自然な呼吸をしながら検索を続ける。が、うつむき、頭を抱えてしまう。うつむいたまま、一時目を閉じて、心と体の安定をとり戻そうと試みる。程なく意識が曖昧になり、脳がジュワーッと収縮を繰り返すような感触と体の火照りを感じる。五分の浅い仮眠ののち、再び目を開ける。顔を上げるとそこにはエメラルドグリーンの画面が光っている。もう一度、その画面を見る。画面をタッチする。求人票が出てくる。目の奥が痛くなる。嫌だ嫌だ、これは嫌だ、今日はもうだめだ。わけの分からない不安と、図々しい選り好み、その先にある採用後の責任。つまり、覚悟のなさ!しかし、この時はそういうことよりも、ただもう何も考えられなかった。頭が白い感じで、何も入ってこない。 出口に向かって歩き出した。すぐ出ようかと思ったが、疲れたので入り口付近の長イスに腰掛けた。掛け時計を見ると午後三時になるところだった。今日はわりと早く家を出たので十一時ころに職安についた。だから帰るのも早いが、それでも四時間くらい職安にいたわけだ。そしてその間に紹介を受けた企業が二社で、両方とも電話で断られた。再び五分ほど目をつぶり休んだ後、受付に検索カードを返却して外に出た。
3
職安からの帰り道、駅ビルの本屋に入る。あてがない。もう小説なんかやめようと思って随分何も書かなかった。そんな塞ぎこんでくるような、出来もしないことをやるより、少しでも元気になった僕は就職をしようと思った。だが、どうしても出来ない。不景気というより、自身の問題によって出来ない。どうにもならずふさぎ込んでくるので、気休めに公募雑誌をパラパラとめくってみた。考えてみれば元のところに戻ってきているわけで、進歩がない。この雑誌を見るのはとても久しぶりだ。僕が最も頻繁に見ていたころは確かA5版だった気がするが、今回手にとって見るとA4版と大きくなっていた。 公募雑誌を買い、本屋を出てウロウロと歩く。高架下脇の、薄暗いところにあるコンビニに入った。平日のこんな昼下がりに、自分のように私服でコンビニにいる二十代後半の男なんて、店員も含めてロクな奴がいない気がした。余計なお世話である。こもりがちな友人に『一緒にがんばろう』等と言っておきながら、精神的に参ってくると思考が悲観的で排他的で、どうしようもなくなってくる。ジャムパンと紙パックの牛乳を手に取る。ふとみると、ここにも同じ公募雑誌が売っていた。わざわざ本屋まで行かなくても良かったと思ったあと、 “べつにどうでもいいや・・・。” と思った。コンビニを出ると、近くの公園に向かった。遊具が少なくて、小さな広場になっている公園があるので、そこのベンチに座って、遅い食事をとることにした。公園に着くと、小さな子供とその母親、それに浮浪者が二人いた。子供は手を前に伸ばしながらヨタヨタと歩きまわっていた。母親は笑顔で眺めている。浮浪者の一人は地べたに寝ていた。もう一人はどこかを見つめながら、拾ったシケモクを吸っていた。でも彼はどこも見ていないと思う。僕は先日の面接で、「君の目には力がないね」と言われ不採用になった。自分の目は、あのモク拾いの浮浪者の目と似ているんじゃないかと思う。人にそう言われたら許せない、殴りつけてやりたい、けれど苦笑いしている。そして自分でもそう思う。彼の目は開いていて、道路の方を向いていたが、きっと何も見ていない。違うだろうか。僕は目を開きながら、いつも頭の中の世界でフラフラとしていた。人から声をかけられて、クラクションを鳴らされて、背中をバシッと叩かれて、その時だけ、少しだけ我に帰る。しかしいつの間にか向こうへ行っている。 例によって朝食も食べていない。トートバックから食パンを入れた袋を出す。家にあった食パンを一枚、お弁当として持参していた。さっき買ったジャムパンを半分にちぎり、中身を食パンに擦り付けながら交互に食べる。貧乏臭いが実際貧乏だし、そして菓子パンは甘いので、これぐらいで丁度よくもある。少しだけ鳩がいたので、小さくちぎってパラパラと撒いてみた。鳩たちは首を振りながらパンくずに駆け寄る。グズな奴が、同じ鳩に何度もパンくずを取られている。気の毒に思い、あえてグズのそばにパンを放ってみた。しかしまた同じ奴に横取りされる。グズが口にくわえているのに、奴はその口からふんだくった。僕はパンくずを指でこねて固くした。しゃくに思い、ふんだくる奴に向かってそのパンくずをぶつけた。体に当たり、そばに落ちる。そうしたら、平気な顔をしてそれもそいつが食べた。豆鉄砲を食らったような顔などまるでせず、人も鳩も似ている気がした。 パンをかじりながら公募ガイドをめくる。ボケーっと本を眺めていると、期待感よりも、おかしな思いが浮かび上がってくる。 “あぁ、まただよ・・・。” また僕は頭の中に落ちていく。基盤になる地面のないような、漠然とした感じ。そこで自分が自分と話をする。どこかからフワーッと思考が飛んでくる、曰く・・・、こんなふうに就職が駄目だから小説、あっちが駄目だからこっち、みたいなやり方は実に情けないのだろうか、とのこと。そもそも小説が駄目だからもう就職しようと考えたのではないか・・・。 “そんな半端な人間の作るものなど、何もモノにならない” そう頭の中で誰かがささやく。 “何事にも中途半端で、とりあえず楽な方へと行こうとしているだけじゃないか” 頭の中の誰かが罵る。 “お前みたいな奴が何かを成すことなんて出来ないね”。 と、僕が僕を嘲るようだ。僕はそれに抗おうとするが、何も言い返せない。そしてため息が出た。僕に反論する言葉はなく、何も言うことが出来ない。『そのとおりです』としか言えない。しかし、何も築けなくても苦しくないわけではない。ぼんやりほっつき歩いていて、何も考えていないように見える僕だって、傷つかないわけではないし腹が立たないわけでもない。心底いいかげんな人間ではないし、辛いという気持ちも感じる。でも、どうにも仕方がない。現状を見れば、何をどういわれても何も言い返せない。 “でも、だけど・・・、 えらそうに言うのなら、だったらお前、俺の一生を背負ってくれるとでも言うのか!無責任なくせになんてえらそうな、えらそうな、えらそうな・・・。“ 頭の中の自問自答が続いていくうちに、現実の視界がなくなってゆき観念の泥沼に沈み込んでいく。そこで対峙するのは大かた自分自身なのだが、しかしそこには、うっすらと幾人かの人間の顔も浮かび上がる・・・。あぁ、まただ・・・。憎しんだり悪く思ったりしたくない。しかしそれでも浮かび上がる顔がある。悪く思いたくない、なのに、きっとどこかで許せないでいる。気にしていないフリをして本当は何も許せていない。気が弱く言いたいことも言えないで、だから内側に不満や憎しみばかり募り、我慢したツケは回り、怒りの感情のときに幾人かの顔が浮かび上がる。そして僕はその顔を思い出すと気持ち悪くなり、逐一叩き潰してやりたくなる。あぁ汚されるような気持ちがして、簡単に言えば、殺してやりたいというような感情。なんて自己中心的!僕に理性がなければ絶叫している気もする。それをしないと言うのは、どんなに視界がなくなっても僕の中に理性的な意識があると言うことだ。だから大丈夫。僕は所詮その程度だから大丈夫、どうせおかしなことなどしない。ただ一人で少し心が不安定になって、疲れるだけのことだ。
個人的な僕の気休めのために投稿をする。そしてそれは悪いことをしているわけではない。僕の勝手だ。だから、ただそれだけのことで、それでいいじゃないか。もう、うるさいんだ、ほうっておいてくれよ。
僕は、僕の中の僕や誰かをあしらい、追い払った。 我に返り、現実に戻ってくると、ホッとしてため息が出た。手に持っていたジャムパンが強く握られて潰れていた。目をぬぐい鼻を拭く。あぁ、14階から景色を眺め、死ぬシュミレーションをしたい。さぁ落ちて、ハイ死んだ、さぁリセット、ここからまたスッキリとスタート!頭を取り替え元気100倍アンパンマンみたい。あぁ、もういやだ、めまいがする。食事が足りていないからだ。しかし食べる気にならない。こんな現状で、偉そうに物を食べている自分も嫌だ。ビスケット1枚で30キロカロリー、太るのも怖い。絶対に太りたくない。握り飯ならぬ、握りパンを口に詰め込んで牛乳で流し込んだ。そしてスックと立ち上がる、しかし立ちくらみ。ひざに手を当て半立ちになって深呼吸。ゆっくり起き上がる。 “あー、もう帰ろう。” いつの間にか、公園には子供も母親もいない。僕もいなくなる。いるのは浮浪者二人だけだ。僕は何もしていないのに、屋根のある家に帰ることが出来る。そのことに対して、うまく言葉にできない何とも言えない気持ちがした。浮浪者に対して申し訳ないというほどの思いでもなく、しかし家があって良かったと言うほどの明確な気持ちでもない。良かったと思えるのは自立した人間だろう。猶予的なハッキリしない気持ちがしたのだろうか。 僕は歩き出す。しかし・・・、こんなことがいつまでも続くわけはないと思う。この世界でしのぎを削って金を稼いでいくなんてとても恐ろしい。自分のような人間にまともな生活など、出来るわけがないように思う。すると僕も近いうちに彼らの仲間になるのだろうか、僕にその勇気があるのか。僕は無意識のうちに猫背になっている。勇気がなくとも状況に迫られたら浮浪者になれるのだろうか。それとも、状況に迫られたら僕は仕事ができるのだろうか。本当に怖くなる。泣きたくなるのをおさえると、半自動的に現実逃避をしてしまう。僕の目は地面のアスファルトに向かっている。 駅までの道のりは繁華街の賑わいが続く。貧乏臭い私服姿の僕は、背を丸め地面を擦るように移動する。繁華街にはパチンコ屋や居酒屋やオフィスの入ったビルが並び、スーツ姿のサラリーマンや幼稚園児を乗せた自転車が行きかう。歩道の片側は路上駐車の自転車だらけで、車道の端は路上駐車の車が点在。地面のアスファルトにはガムが固まって黒くなった跡や、吸い殻やら空き缶やら。中身の電話機のなくなった、撤去前の電話ボックスもある。しかし頭の中では、高校時代の風景を見つめ、その頃のことを思い出していた。高校は、都心の繁華街にある学校へ通っていた。地元の高校へ行く予定だったのだが、病気と僕の根性の関係でそこ以外の選択肢はなくなったのだった。だから僕を入れてくれたその高校はありがたかった。その街にはたくさんの浮浪者がいた。高校でのほとんどの時間を、寝ていたか眠気と戦っていた僕は、放課後も寝ていることがよくあった。全くの無気力状態で、強迫観念により頭の常態も思わしくなく、寝ているときだけ心が楽だった。目が覚めると教室には誰もいなくて部屋は薄暗く、外を見るともう日が暮れていく。しばらく暮れて行く街を眺めた後、ノロノロと席を立ちカバンを持って岐路に着く。そのような状況の帰り道、その街ではどこを通っても浮浪者を見かけるのだった。彼らを視界に入れながら、僕はいつも将来の自分の姿なのではなかろうかと不安に思った。いつか自分があっち側の立場になって、今の俺のように学生服を着た奴らが、俺の前をヘラヘラ笑いながら通るんじゃないか。僕の行き場はあそこしかないんじゃないのか・・・。あの頃からそういう思いに駆られていた。進歩がない。僕はどうなるのだろう。
現実に戻ると、駅への道の途中でパチンコ屋の若い女性店員がティッシュを配っていた。僕はそれを受け取るとき、無意識の内に小さな声で言った。
「ありがとぅございます・・・」。
しかも語尾が消えかかる。あー、なんだか童貞みたいで腹が立ってくる!
4
駅に戻ってきて、切符を買ってホームに出る。さぁ、ホームだホーム!目を覚ましてシャキッとしないと!だってホームは危険だからシャキッとしないと危ない。何気なく歩いているうちに人にぶつかって、誰かを線路に落としてしまうのではないか怖い。その時に電車が来てドーン!小さな子供や老人を見ると、なぜか衝動的に線路に突き落としてしまうのではないかと不安になる。その時に電車が来てドーン!そんなことやっていないのに、もしかしたらやったのではないか不安になり、その時に電車が来てドーン!いや、誰も落としていない、落としているわけないじゃないか、あぁ、でもその“落としていない”という認識が、もしかしたら僕の勘違いなのかも知れなくて、そのときに電車が来てドーン!いーや、そんなはずはない、なぜならこの目で線路を見ると、ほーら誰も落ちてはいない、しかしそれは僕の見間違えなのかも知れなくて、そのとき電車が来てドーン!体はグッチャグチャのブシャーッ!あああーーーー!頭がいやだ!!人殺しになってしまう!!
電車なんて横滑りのギロチンマシーンで、ホームや踏み切りは斬首台じゃないか。あんな金属の塊がすごい勢いで吹っ飛んできて、何で皆不安にならないのだ。誰かを落としていないか不安になって線路を覗き込んでいると、電車が近づいてきているのに気がつかない。自分の頭の中でグルグルしていると、自身に対して警報を鳴らされた。プァーーー!!ものすごい音に驚き、体がのけぞる。体勢を立て直し、両手を膝に当て半屈みになる。はぁー、はぁーっ、僕は激しく息をした。 あぁ、人殺しにならないように、また、思わぬ形で自分が死なないように、なるべくホームの真ん中にいよう。
程なく来た電車に乗る。ホームは嫌だけど、電車に乗るのは割りと好きだ。電車は放っておいても勝手に動くし、勝手に動くために景色も勝手に変わって少し愉快だし、座れれば楽だし、だからわりと楽しい。電車は他人任せで動くから、自動車の運転みたいに責任の恐怖に駆られなくていい。電車に乗っているだけなら、誰かはねたって俺のせいじゃない。そうだ、Never Mind、勝手に撥ねやがれ!
さぁ、ほんの少しリラックスできる乗車タイム、僕はつり革に半分ぶら下がるようにしてだらしなく立っている。周りを観察すると、僕のそばにはやたら短いスカート丈の女子高校生が二人座っている。その横で、おっさんがムスッとした顔で新聞のエロ記事を読んでいた。堂々と開いているので良く見える。大きな写真で裸の女の子が出ていて、『今月の目玉は新人の美佳クン、なんと18歳!乳房のふくらみにもまだまだ期待が持てる、有望な癒し系少女だ』と、書いてあった。彼を見たら、なぜか職安で僕を断った声のでかい担当者のことを思い出した。偏見だろうか。記事とオッサンの顔を交互に見てみた。このオッサンは『美佳クン18歳』とセックスしたいのかなと考えた。僕は性別と金がリンクしてくると、何か嫌な、暗い気分になってくる。どんな関係でも生きている以上金はついて回るものだけど、特に性と金におけるその度合いは、それが強まるほどに何だか憂鬱になってくる。憂鬱な気持ちは僕を消極的にもさせる。でも目の前にエロと言う人参をぶら下げられたら、そんな気持ちは壊れて僕もむさぼるのかな。あぁなんか嫌だな。一人であれこれ考える。横に座っている茶色がかった髪の女子高校生はさかんにスマホをいじっている。横でエロ記事を開いているオッサンのことなど眼中にないようで、オッサンもまた女子高校生のことは眼中にないようだ。僕は色々悩んでいても、街に出て若い女の子を目にすると“あーエロい、あーなんてエロい”と思う。その点まだまだ救いがあるのだろう、か。僕は女子高校生に目をやった。 “あーあの子、スマホに夢中になっている隙にパンツ見えないかな” と思った。高校生のくせに刺繍やレースが色々付いた白くてエロいパンツ履いてたりして。 “あーぁ、こいつとセックスしたいなぁ。” とデタラメなことを思った。いやらしいことをあれこれと想像して、そのうち残酷なことも少し想像してしまい怖くなった。要するにいきなり殴りつけて強姦してしまったらどうなってしまうのだろうとか考えてしまい、結局また気分が悪くなった。そういうことを考えただけで調子が悪くなり、あるいは考えたくなくても勝手に頭に浮かび、こめかみに手を当てて視線を落とした。考えなければ良かったと思う。でも精神科医は『思うことと、実際の行動に移すことはまったく別だ』と言う。要するに、心で何を思おうとそれは自由だし、悪いことではないというような意味だ。
『思ったり考えたりするのは人間の権利だろう。人間は機械じゃない。警棒で威嚇して常に君を監視しているような、そんな思想警察は時代遅れだからお暇をあげなさい。』
次第にリラックスしてきて、こめかみから指を離し前を向く。そう、僕がとんでもないことを考えても、僕がそれを実行するってわけじゃない。ゆっくりと落ち着きを取り戻す。 すると、心の中でいやらしさや汚らしさにたくましい僕と、現実世界の車中、高校生の横でエロ記事を開くオッサンというのは、なんだかおもしろい対峙だな、と思った。 オッサンはエロ記事、女子高生はスマホ、俺は妄想、どこかの車両では電車酔いしてゲロを吐いている人もいるかも知れないし、昔乗った電車では他人から分かるくらい完全に勃起してる人もいた。車両の繋ぎ目で小便をした小説家もいるし、それに“美佳クン18歳”は今頃どこでどうしているのだろう。色んな所でいろんな人が色んなことをしている。考えている。 僕は面倒くさくなって、そこらの開いている席につくと程なく寝てしまった。一年中眠い。
5
家に帰って部屋の電気をつける。中古品で固めたオーディオシステム。値崩れした過去の物ばかりだが、仕事を持っている時に少しずつ築いていった。僕は音楽を聴くことが最大の趣味なので、オーディオはセッティングまで詰めて、音源も数多く所有していた。
アンプとCDデッキのスイッチを入れる。しばらくすると保護回路が解除される。そしてデッキのプレイボタンを押すと、密閉型のスピーカーから程よく締まりのある音が響き出す。使っているのは70年代前半のスピーカーで、中古購入したものだが、きれいに管理して何の問題もない。スピーカーを支えるスタンドやボードは、どっしりと音を制御して、その箱を響かせている。タイトで質の良い低域は、狭くて物の多い四畳半にはちょうどいいと言えた。嫌なことがあると部屋に閉じこもって音ばかり聴いてしまう。中学の頃からずっと音楽が好きで、ロック、ジャズ、テクノ等、思いを刻み込んだたくさんの音を聴いた。それは自分の肩代わりのような存在だった。犯罪を犯してやりたいような気分の時も、頭がぐちゃぐちゃにねじれて酷い気分の時も、ロックを始めとする音楽が僕の心を溶かしてくれた。 ジョイディビジョンの暗鬱な音色に身を委ねながら、とりあえず投稿しやすそうな公募情報をチェックしてみた。しばらく書いていない自分でも書けそうなものを、と思い、探す。その中で原稿用紙十五枚程度でテーマは『あした』というのを見つけた。十五枚なら書きやすいと思えた。募集要項を見ると、『規定の了解にとらわれない斬新な作品を望む』云々と、ありがちなことが書いてある。他にも『キラリと光る未来への云々』等とあり、全体的にトーンが明るいように思えた。要するにここでいう『あした』とは、『未来』とか『希望』というような意味合いで捕らえろということなのか、と思う。そう、未来とか希望とか、夢とか明日とか、学校の道徳みたいなことをいろいろと並べたてる。そうして良識あるつもりでいる連中が納得して、彼らが心あたたまったつもりになるものを書くと都合が良いのだろう。じゃあ、そういう話をでっち上げるのか。しかしそういう話だって、悪意を持った書き手が読み手を騙し切るのは、それなりに大変なことだ。あぁ、知っている。本当の善意とは、安易な悪意の垂れ流しより、よほど困難で覚悟のいるものなのだ。一人の人間を救う善意とは、社会を騙す表層の善意や、それに唾する安易な悪意よりも、重く偉大でそして大変なことだ。でも、どっちにしたって僕は今、そういう話を書きたくない。書けない。 じゃあやはり『斬新な作品』ということで、猥雑かつ、たくさんの人が死ぬ話が良いだろうか。なにせ、障子にペニスを突き立てたり、恋人が死んだり、死人のペニスにお香を突き刺したりする小説が『斬新』なんだから! 宦官することによって『明日への希望』をつかんだ下男が、御偉方に取り入って立身出世して『あした』を掴むような話でも書いてやろうか。宦官なら下半身にも激しく関わるから斬新だろうし、それに、それが歴史に見る英雄的かつ道徳的な姿というものだ。そんな異常な話は幾らでもあり、戦争をすれば三光が美徳になるし、米ソに冷戦の兆しが見えれば、日本へ原爆を落として、独力で早急なケリを付けることも正義になるのかも知れない。当然とんでもないことだと思う。そして今だって、都合の悪いことは国も個人もなかったことにしたがるのだ。大きなことも小さなことも考え方としては繋がっている。『希望』や『あした』を語る大人の語りたがる道徳なんて、そんなもの彼らは大体守っていないし、そのうえ彼らの都合だ。
精神的に参っている僕は、投げやりな感情ばかりが浮かび、皮肉や不快感を撒き散らしたような状態になるのだった。
そして僕は書いてみた。
『あした』
先日X社へ面接に行った。もう何十社受けたのだろう。これでも『あした』をつくろうと思っている。しかし、不安を感じ、いぶかしみながら赴いてしまう。僕の履歴には正社員経験がない上にブランクがある。そのブランクは主に心的な病気によるものだが、その点をどう言えばいいのか分からない。自分自身、自分が信じられず、ブランクはただ怠けていただけなのではないかと自ら罵り、疑う。執筆を続けるために就職しなかったなどと言っても、それも口実じゃないのかと自分に責められ自信が持てない。そういうふうに自分を責めるようなことは思わない方がいいと判っていても、どうしても自責的な考えや強迫観念はとどまらない。
「なぜ今回、うちを志望したんですか」。
「変わった学課のようですが、なぜこの高校へ進学したのですか」。
「小説を書いていたとありますが、どの程度やっていたのですか」。
「この抜けている期間は何をしていたんですか」。
身の上や過去について色々と聞かれる。当然、ブランクのことは常に突っ込まれる。病気だったと言えば、不必要なほどに不安視される。平気だと言っても、今も通院しているのかと聞かれれば、嘘はつけずそこで終わり。取る気もなくなったのに、やけに興味しんしんに薬のこと等をしつこく聞いてきた上に、説教してくる人もいる。だから基本的に病気のことは言うわけにはいかない。それに、病気をだしにして頼むような真似をするのなら、堂々と障害手帳を取るべきとも思う。しかし病気のことを言わなければ、『フラフラしていたわけだ』とらく印を押されてしまう。当然、自らフラフラしていましたと言うわけにもいかない。どう振舞えばいいのか分からない。嫌で嫌でたまらない。しかし、言いようがなく押し黙ってしまうのでは話にならない。だからそれでも出来るだけ、自然に、気持ちを楽に持って話そうと思った。三人に囲まれた僕は、緊張を隠し、悟られないように相手の人柄や社風を見て、自然に話をしていこうとした。それはそれで不自然だったかもしれない。結果、不必要にフワフワと、ヘラヘラしてしまったと思う。
僕の話をさえぎって女性の面接官が僕に言った。
「すいません、きついことを言いますが、あなたは小説を書くのが死ぬほど好きなんですか。私は目的のないフリーターは大嫌いなのですが、あなたは中途半端な気持ちでフラフラとフリーターやってたんじゃないんですか。小説を書いていたのも、この仕事に興味があったのも、全てなんとなくなんじゃないですか。高校を選んだ時の動機も曖昧なようですし。今日ここに面接に来たのもなんとなくなんじゃないですか。そんな気持ちで勤まる仕事ではありませんよ。あなたには本気の思いというものを感じません。あなたの本気の気持ちを見せてくれませんか」。
その通りだと思った。他の人にも似たようなことを言われたことがあり、ふたたび言われたことで、やはり自分はそうなのかな、と思った。同時につらいなと思う。僕はいつも、何も言い返せない。そして、ただ固まった。一分くらい無表情で固まり、何もいえなくなった。その間、頭の中は妙に冷静なような、混乱しているような、おかしな空白感があった。“この面接官はいい人だからここまで言ってくれるんだ、相手を思う心があるから、こうやってはっきり言ってくれるんだ”、と、なぜかそんなことを繰り返し思った。そうやって本音を言ってくれるのは、うわべで「ご苦労様でした」と言って、不採用通知を送ってくるよりも、相手のことを思ってくれている証拠だからありがたいことなんだ、と、無理にでも思う。同時に、“その通りだ、全てその通りだ、自分は本当に情けない”、とひたすら思う。“面接官の言うことは正しい、僕は間違っている”、繰り返し繰り返し頭の中をリフレインする。それは僕自身が思っていると言うより、僕自身をそう思い込ますかのように、勝手にリフレインする。そして何も言えない気持ちになる。しかし・・・、実際そうも思うのだが、感じる感情がそれだけのはずはないのだった。僕の本当の心は、本当の心は・・・。
“勝手なことを言いやがって、おまえ俺の何を知ってんだふざけんなよ”と、怒鳴り散らしたい気持ちも渦巻く。でも僕の感情はなぜか、常にそういったものについて押し殺そうとする。自分をむき出しにすることを強く押さえ込む。しかしそれは単なる弱気な保身か、冷静なフリだけしているのかも知れない。そしてどうであれ、それらを全て受け止め、総じて回答を出そうとした僕の頭はまとまらず、ただ前を向いたまま無表情で固まってしまった。無理な処理を要求したときのパソコンのようだった。 実際僕は状況の流れで興味のない学科の高校へ行ったが、入試に際しては学校なんて選べる状況ではなかった。答案用紙を前にして、答えがたやすく判っていて、鉛筆も持っていて、手を怪我しているわけでもない。なのにどうしても文字が書けずに、頭がねじ切れそうになる状況なんて、他人に理解できるのだろうか。
「答えを書いてはいけないと、自分が自分に『命令』されて動けなかったので、だからそんな僕でも合格にしてくれた高校に行かせてもらうしかなかったのです」
なんて言って納得してくれるのか。 僕は試験開始のベルが鳴っても、その開始ベルの音が本当に鳴ったのか、まだ鳴り終わってないんじゃないか気になって、試験を始められなかった。試験をはじめたら不正になるような気持ちが強烈にした。不正したら人間として死ぬまで恥を背負い続け、最低な人間として軽蔑され、そして他の正当な受験者たちの人生も狂わす。最悪な行為。全て0点にする。そう脅し続けたように感じる教師たちの恫喝を誰より真剣に受けとめた僕は、正義の人にならず精神障害者になった。 体調が悪く誰にも会いたくなくて、一年間自分の世界に閉じこもり、何も出来ない自分はこれに全てをかけたいと命を削る思いで小説を書いた。身長百八十センチで五十キロを割る体重になる執筆作業が、単なる暇つぶしだったと言うのか。 僕は目標のないフリーターだったかもしれない。しかし、目標があるフリをしているだけで本当は何もないフリーターもたくさんいる。でもそれだってつらい。そして人前では恥じらいもなく出まかせの目標や夢を語る人間もたくさんいる。僕は無職やフリーターをしながら、常々自分を卑怯者だと思ってきた。自分を卑怯者だと思う心は、自分に夢や希望を語らせることを許さなかった。自信のある態度を取らせることを許さなかった。それは、自分が正直者の良い子の顔をしていたいという自己満足の産物でもあるし、切羽詰まったときの責任逃れのための口実であり弱さでもあろう。しかし、それを一ミリたりとて誠実さと言ってはいけないだろうか。 社会人に悩みがあるように、目標のあるフリーターも、目標がないフリーターも、引きこもりもプータローも、悩みがある。そういった人間は立場が立場だけに、より一層、人に言えない心のモヤモヤがありがちだ。病気が絡んでいる人間もいる。僕はそういう、パッとせず自己主張もできない人たちを割と知っている気がする。そして彼らが人でなしのクズなどではないことも知っている。控えめで優しい友達だ。世間ででかい面をしている人間に、彼らや僕よりもよっぽど汚くて利己的な人間がたくさんいることも知っている。なんでもかんでも自信満々で自己主張できるのは、場合によってはその人が恥知らずのバカだからなんじゃないか。多くの人間が自分には都合がよく、それを汚い欺瞞で理由づけ肯定して生きている。それに気がつかないか、気がついても気がつかないふりをしている。恥ずかしい奴らだ。僕もそうだ。そういう恥ずかしい奴らの中の特に恥知らずな、強引で立派そうな連中によって、好きなように楽しく世界を回していく。そうして作った権力で、その権力が及ぶ限りに彼らの道徳を押し付ける。彼らに都合のいい薄っぺらい道徳を。影響範囲がデカければデカいほど偉い。僕らのような社会のお荷物はなんの権利も資格も持っていない。いかなる理由があろうとも、どんな思いを持っていようとも、僕らのような根性のない人間は常に恥じ入らなければならない。 怖い! 怖い! 怖い!僕の本当の心は・・・、心は・・・。 ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!! 僕は面接官の女性に何も言えなかった。ただ固まり、自分を恥じ、相手は善意ある人だと本当に思ったが、必要以上に無理にでもそう思い込もうとした。それら全てが高じ、頭は真っ白になるばかりだった。 そして僕は、彼女の言う『本気の思い』、つまり就労に対する覚悟を見せることも出来なかった。だから僕は結局世界と関係が持てず、つまり僕は臆病で生きるための手綱をつかめない。どうにもならない。ただ、なんとか、生きているから生きている。僕の本当の心は、その言葉に対してきっと怒りに満ちていた。彼女の言葉には勇気があった。しかしそんなことは関係ない。僕の中には、本当は怒髪天を衝く怒りに満ちた感情こそがたぎり、そして、その感情こそが僕の本当の本心であり感情だったはずだ。しかし、ただ黙り込む僕に、面接官たちは心配した。自分を情けなく感じ、しかし覚悟も示せない僕からやっと出てきた言葉は、
「その通りです。本当にすいません・・・。」
というものだった。
その数日前には友人と会った。僕は失業者だが、彼は浄水器の営業マンだ。でも彼は本当は浄水器に興味が無く、
「俺は水道水でいい」
と言った。そして付け加えてこう言いながら笑った。
「水道水にも別に興味ねーけど」。
売れないから大変だけど、疲れたら路肩に車を止めて昼寝してても判らないから悪くない、と言う。その言葉は少し投げやりにも聞こえた。
「ふぅん」。
僕は答えた。僕らは公園のベンチで安い菓子パンを食べた。僕は水道で水を飲んだ。公園の水は、蛇口を少し捻っただけで、ものすごい勢いで噴射した。僕は顔中水だらけになってしまい、二人でアハハと笑った。 人生には目的が無いといけないのだろうか。行動には明確な意志がないといけないのだろうか。彼の言葉には無理をしているところもあるのだろうし、彼も懸命に戦っている。それに彼は面接において、しかるべき態度を取ったのだろう。彼は僕よりはるかに勇気があるし大人だ。しかし、彼の言う『仕事』への思いって間違えているだろうか。僕は浄水器を売る仕事より、あるいは他に見当たる求人よりも、X社で事務の仕事をする方が、自分にとってより良いと思ったからX社を受けた。あるいはよりマシだと思った。営業等より若干給料が安かったとしても、地道な事務作業が自分には向いていると思ったし、比較的やってみたいとも思えた。それ以上もそれ以下もない。明確な動機や入社後の目標を示せと言われても、答えることなんかない。答え切る自信もない。嘘やハッタリを言う度胸もいい加減さもない。そして本当は勇気もなく、怖くて逃げ回っているだけ。しかし、僕が今までのアルバイト経験を通じて見てきた社員たちには、面接で求められるような、すさまじい目標や使命感を持った労働の闘志などいなかった。それにそんな奴は気持ち悪い気もする。それは普通の感覚じゃないのか。浄水器を売りながら浄水器に対して興味がないという友人の姿勢は、社会人としてクズだろうか。 今仕事をしている人で、その仕事に熱い情熱を感じて、俺がこの会社の『あした』を作り上げていくんだ等と燃え上がって働いている人はどのくらいいるのだろう。それは進歩的で人生に生きがいのある幸せな人たちなのだろうし、苦しい時でもそうやって奮い立たせているのだから立派だと思う。おかしな含みなどなく、素直に立派だと思う。でも、おれは興味がない。そんなふうにしたいと思わない。また、特別金持ちになりたいとも思わないし出世もしたくない。なぜなら、そんなことは大してどうでもいいし、責任も担いたくないからだ。偉くなりたいなんて全然思わない。 僕は仕事にあまり興味が無い。そもそも人間と関わりたくない。それに付随する責任や苦しみ、恐ろしさを思うと、できれば何もしたくない。しかし、生活のため仕方が無いから仕事をやらなくてはいけないと思う。正直なところでは、多かれ少なかれ、こういう気持ちを持っている人も決して少なくないと思うのだが違うだろうか。面接で求められるような人間にはなれない。面接で求められるような人間を演じるのは極めて苦痛だ。覚悟を示すのは恐ろしい踏絵だし、巨大な勇気がいる。かと言って嘘を言う自信も度胸もない。 僕はつぶやく。 “人は前向きでなければいけないとか、元気が無ければいけないとか、誰が決めたんだろう。大きなお世話だし、あれこれ見えないと人生楽でいいよな。僕は余計なものが見えすぎて嫌になるよ”。
すると、もうひとりの僕がすかさず僕を罵った。 “だまれ、聞いたようなこと言うな、恥ずかしい臆病者め!”
傍観者のような僕がしたり笑顔でつぶやいた。 “このままでは終わりだな。”
後日、X社からなぜか二次面接への声がかかった。でも僕はもう怖くて嫌で断ってしまった。僕はバカなのだ。 こののち、公募雑誌にあった『そよ風』というテーマで物語をでっち上げた。落ち込んでいる時にふと頬をなでた『そよ風』が云々と言う、出まかせの甘ったるい童話を書いて送った。実際気が滅入っている時に、そよ風を頬に浴びて、だからなんだというのか。本当は、そんなものを感じたところで、何も感じない。だから今回は本当のことを書こうか。テーマは『あした』か・・・。 『昨日』は『そよ風』をでっち上げて『今日』送った。『今日』は『あした』をでっち上げて『今日』送る。『今日』は『昨日』のでっち上げで『明日』は『今日』のでっち上げ。予定調和の変わらない『昨日今日明日』。『昨日』も、『今日』も、『明日』も、毎日毎日、連綿と嫌な気分が続いていく。おかしな曇天模様、強迫観念で覆われた『昨日』の『明日』である『今日』が、何も変わらず嫌な気分であるように、『明日』も同じように、同じように、同じように嫌な気分が続いていくんだ。同じように同じように強迫観念が覆い尽くす。自分で生産する漠然とした嫌な感じの『明日』。毎日毎日なんとなく嫌な気分。残念だけどこれからずっと続く。これから生涯続くんだ。お前になんか、それを断ち切ることなど出来ない。お前になんか絶対できないね。お前の意志など関係なく、俺はお前を監視してねじ上げてやる。おれは強迫観念、生涯お前にまとわりついて、お前に不安と不快を押し付けてやる。そしてお前は苦しみ、終わることのない理不尽な怒りにさいなまれ、疲れて無気力になりひきこもる。それが俺の喜び。不安と怒りと無気力、それを繰り返し、しかしお前には結局何もできない。それを断ち切れるなら、それはお前が死ぬときだ。俺を殺すためにお前死んでみるか?あはははは。おれとおまえは一心同体。仲良くしよう。いい気味だ、本当に笑えるぜ。俺が死ぬのはお前が死ぬとき。生涯お前に付きまとい迫害してやる。絶対に。 今うまくいっていない人に、今はうまく行っていないけれど『あした』はきっと良いことがあるよなんて言ってやりたくない。ずっとうまくなどいかず、明日もいいことはない。生きている資格もないくせに、毎日毎日のうのうと生きていることを、申し訳なく思って今すぐ謝れよ。いいことなんかあると思わず、お前なんか『今すぐ』死んじまえと言ってやりたいね。 いいことなんかないよ。お前なんか死ね。 いいことなんかない。お前なんか死ね。 いいことなんかない。お前なかんか死ね。お前ら全員死んじまえ、死んでしまえ、死んじまえ、このブタ野郎。恥知らずのブタ野郎。お前らの顔を見たくない、口を利きたくない、声も聞こえたくない、関わり合いたくない、思い出したくもない。お前らといると吐き気がするんだ。消えうせろ偽善者。吐き気がするクソ野郎。死ね死ね死ね、いますぐに死ね。
がっかりする。いつもの僕はそんな奴じゃない。だけど時にはそういう気分。どうにもならない。こんなことを言いたいわけじゃない。でも心はこういう感情を作り出すこともある。僕はそんなこと思っていないと抗弁したくても、思っていることもある。そしてそれは、自分に向かって言っているのでもある。
6
何もやる気がしない僕は150社か200社か採用を断られて、あるいは逃げて、それでもかろうじてやりたいと思うこと、自分に出来ると思うことは、物を書くことだった。『それが死ぬほど好きなんですか?』と聞かれるのなら、それが死ぬほど好きなわけがない。吐き出すものがある、吐き出さずにいられない、だから書く。そこに「好き」とか「嫌い」なんてない。そんなことはどうでもいいことだ。芸術は「好き」でやるものじゃない。生きているからやるんだ。表現するためにやるんだ。極論したら芸術は血で、内臓で、頭であり心であり、命であり、そういうえげつないものだ。それをいかに表現対象にこびりつけるか、それが芸術の創作であって、僕が価値を感じるものであって、そこには喜びや怒り或いは苦悩や意地や人間そのものがあり、その創作行為に好きとか嫌いなんかない。 自分の中にあるものを搾り出して、世界にほんの少しだけでも、―――小指の爪ほどでも僕の創った傷を刻み残してやりたい、なんて思ったりもする。なぜだろう。僕はその傷を見て、“ザマアミロ”とニヤニヤしたいのだろうか。それはしょうもない『復讐』なのかもしれないが、しかしそれだけじゃない。僕はやっぱり表したいんだ。そして何よりそれ以前に、僕には書くことしか出来ないんだ。『本当に小説を書くのが死ぬほど好きなんですか?』 死ぬほど好きなわけがねぇんだよ、偉そうに判ったような、ふざけんじゃねぇ。言葉に出来ない思いがするよ。自分で自分が後ろめたくなるような感情が浮かび上がるよ。自分が嫌になるよ。 そして、本当にごめん・・・。生きているから書いているんだ。物を書くことは、他に出来ることのない僕の、生きることに対する必然的な帰結だ。それはほんの少しの誇りかも知れない。確かに僕はそれをやりたいと思う。社会の何もかもが怖くて、臆病で、信じられなくて、不快で、そんな情けない僕がそれでもできることは、一人文章を書くことばかりなんだ。頭を悩ませて、白紙に文字を刻み付けて行く。僕に出来るのはそれだけなんだ。そして僕は生きている。だから僕は書いているんだ。 そして今書けることはこれなのだった。 あぁ、そんなものではない形で書けるようになったらいいとは思う。
僕はこの後アルバイトとして社会復帰した。僕の仕事ぶりは前例がないほど遅いらしい。気楽にやろうとしてもどうしても出来ず、ミスに対して異常なほど神経を使ってしまうので、遅いのはいつになっても変わらなかった。無駄に疲れ、周りの目も気になり、十日に一度は辞めたくてたまらない気持ちになる。しかし、一応社会復帰したから、自分から辞めると言わないようにしようとがんばって、半年でクビになった。 『あした』は予想通り橋にも棒にもかからなかった。当たり前だ。判り切っていた。それなりに斬新さはあると思ったが、どうせダメに決まってると思っていた。苦労するだけ無駄なのだ。しかし、たいしたことのない傷口を見せびらかして、たいしたことのない傷口に塩を塗るような文学だって、あったっていいと僕は思う。世の中は幸せや奇麗事ばかりではない。かといって派手な作品によくあるような、暴力、ドラック、乱交セックス、交通違反等々と、あらゆる不良行為に励んでいる人間も実際はそういないだろう。恋愛に身を置いていない人も多いだろうし、身の回りの大切な人が劇的な死を迎えるようなこともそうはない。世界の中心で愛をさけばないのも別段普通だし、実は結構何もなくて、そのくせつまらないことにクサクサ悩んでいるのも、日本のシケた青年の現実の一部じゃないかと僕は思う。だから僕は自分の作品が落選でも別に構わなかった。イケメンイケ子がヒャイヒャイ言ったり、情熱燃やして夢に突き進んだりいしているだけが世の中の姿じゃないんだ。だから僕の書いたものが相手にされなくても、僕の中の評価は落ちないし、それに落選こそ冴えない文学青年らしいじゃないか。 僕はたくさんの人に支えられた。本当にだめだと思ったときも、いつも僕を思ってくれる人たちがいた。夜中の二時に電話して話を聞いてくれた人、いつも気にかけて声をかけてくれる仲間たち。親。楽しく遊ぶ友達。それに、たくさんの時間を割いてくれる精神科医もいるし、どうしようもない状況の僕を合格にしてくれた高校受験の時の面接官。僕の目を見て語りかけてくれた昔の恋人。彼らがいなかったら、僕はもっと自閉して酷いことになっていたと思う。だから僕も人にそうやって接したいと思う。人のことを思えて、一緒に同じ苦しみや喜びを分かち合える人でありたい。誰かの力になれたら、それは嬉しいことだとも思う。僕の心はそんな気持ちと、全てを否定したい気持ちを行ったり来たりする。 表現者になれなかったら、あとはどういう人生になったとしても大して意味がないような気持ちになることがある。だけど、僕みたいな人間はどういう形になったとしても、きっと生きれるだけ生きるのだろうと思う。もうお終いだと思って眠って、だけど目が覚めればまた当たり前に嫌な毎日が始まるように。僕はグズグズグジグジ言いながらも、生きていくのだろう。表面上後ろ向きでも、生きている限り根底の前向きさを持っていることを伝えておきたい。
進めない日々でも終わることなく続く。仕方ない思い出も、できるだけがんばるしかない。強迫観念や憂鬱が何かにつけ付きまとうのは本当かも知れない。だけど、それが僕を台無しにすることはできないのだ。
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