映画・『青春夜話』の感想、考えたこと等
映画・『青春夜話』の感想や、それを見て考えたこと、また、映画を見る前のこと等をフェイスブック(FB)に綴っており、それらについてまとめた物をこちらにアップしました。よろしければ読んでみてください。
(FBの主要な該当ページ)
https://www.facebook.com/omusubi.mogumogu.paso/posts/2429395353951799
映画の内容については下リンクをご確認ください。
1項・青春夜話の感想、考えたこと等(2項以降に、映画を見る前の話などもあります)。
切通理作さん監督で、深琴さん、須森隆文さん主演の『青春夜話』を見て来ました。先日話した映画です。感想を書いたのでアップします。すごく長いのでほとんど読む人いないと思いますが・・・。
本文に入る前に短い前置きを書かせてください。僕は表現に携わりたくて、その中でも特に文章を書きたいので練習を兼ねて色々綴るのですが、例によって詰め込み過ぎて話がそれている部分があったりして困ってしまいます。肉付けするほどクドくなり論旨の端的さがそがれるのですが、加減がうまくいきません。頭にある物は全て書きたくなってしまうのです。これも強迫観念か。詰め込み過ぎて文章をダメにしている気もするのですが、足したものを削ぐのがまた難しいです。
誰に習っているわけでもない上に意固地なので、どうにも同じ轍を踏んでいる気がします・・・。以下本文になります。
12月3日、初日に青春夜話を見てきた。主軸となる内容をものすごく端的に言うと、パッとしない青春を過ごし、現在も目立たない人間として地味に生き、毎日が全然楽しくもない感じの主人公男女が、たまたま出会い意気投合し、深夜の母校に入り込み『復讐、青春のやり直し』として無茶苦茶をする話。こう書くと暴走描写の映画かとも思えるし、僕自身そういう方向になるのかなと思ったのだが、それはかなり違かった。
後々考えるとそれゆえなのだが、自分のなかで端的に消化できない、不思議な映画だった。とてもおもしろかったのだが、ひとくちに面白いというより、消化しきれず、余韻に浸りたいような、何度か見て頭を整理したい感じというか。帰りの電車は、その消化できないものが何なのかを考える時間だった。忘れないうちにと思い、入力しづらいスマホをいじりながら想念の断片をツイートしていった。映画はとても面白く、男性主人公の野島は自分と重なる所が多々あった。
興味のある人はほとんどいないと思うけど、僕がなぜこの映画に対して消化しきれない不思議な気持ちになったのかを中心に綴ってみたいんだ。
監督は、僕が好きなものの周辺で名前をよく聞くが、しかしなんとなくしか知らなかった切通理作さん。初めて直接に目にしてきちんと話を聞いた切通さんは、僕の想像よりはるかに饒舌で流れるように話をされる方だった。一見では分からないことだが、むしろ話好きな人に見えた。多少屈折しモヤモヤとした物が振る舞いに現れる人なのかなと思っていたが、非常に利発で知的な方だった。
そして知性は映画にも現れていた。内容はフェティッシュな変わったものでありながら、そればかりに流されず主軸を含め3つの話が平行して進んでいった。それぞれの些細な言葉が全く関係のない別のカップルの話に引き継がれるという、細やかかつ妙味を持たすシナリオであったり、また行動もただ滅茶苦茶をして破滅していくのではなく、登場人物たちにも観客たちにも夢を見させるようなファンタジーの感触があり、なおかつ笑い等も散りばめられる。
あの鬱屈し屈折した二人なら、それが結びつくことで一層に鬱々とするか、仲間を得たことで化学変化的な爆発をして発狂一直線「地獄行きでも上等」と暴走する、そんな方向なら良くも悪くも分かりやすい。
しかしこの映画はそうはならない。互いに内面をさらけ出したり、自らの欲望を表明したり、相手を『卑怯者』と言った具合に罵り、もっと自分自身をさらけ出すことを強要したりといった、自己主張と、相互の信頼を強めるためのえげつないやり取りを多分に介在させながら、ぶったり撫でたり、ヤッたり突き放したり、そしてまたヤッたりを執拗に繰り返す。変態的フェティズムをまき散らしつつヤリまくる。しかしそこに主軸だけでない話も平行して噛んで来て、尚且つ主人公たちにも迅速な破滅を提供するのでなく、優しさとか夢みたいな感じの柔らかいものを含みつつ、ロマンティックに、時に笑いも絡めて映画が進んでいく。皆それぞれに満足できない人生を歩んでいる人たちだというのに、だ。
ぼくが消化しきれず不思議な感覚になったのは、その多彩さ、―――多彩さを形成する余裕のある知性―――ゆえだったのかもしれない。
監督の切通理作さんは、あの映画に出てくる男女のパッとしないメンタリティをおそらく事実として持っている。しかし、同時にとても旺盛で溌剌とされていた。全てが完成した晴れの日だからということもあろうが、何かしら人生を楽しく過ごしている人のようでもあった。恵まれた仲間を持ち、自己実現をなしている人の充実したものを感じた。切通さんは当作主人公たちよりはだいぶ年配であり、苦汁をしみ込ませながら年を重ねてきたのだろうとは思うが、現在の彼は、主人公たちの登場時の雰囲気とはかなり遠い感触も発散していた。私的には余韻を噛みしめ考えたい感情があった劇後のトークショーでは、あまりにノリの良い明るい雰囲気に、映画の味わいが夢散してしまいそうに感じるぐらいだった。
しかし切通さんは、間違いなくマジョリティとは違う鬱屈としたメンタリティを持っているはずの人なので、この両刀使いのようなスタイルが当初僕には不思議だった。僕の知っている鬱屈としたメンタリティを持っている人間は、その人間から発せられるものもおよそ鬱屈とした暗い陰がよく見える。この映画の主人公2人の序盤の姿もそうであった。僕や僕の回りにいる人間も、もう若者ではない者が多いが、僕を含めその手の人間は年齢を重ねた今もおおよそそんな具合に見える。
ところで僕の知る鬱屈としたメンタリティを持った人間は、おそらくだがみな基本的に、人生において一般的にいう所の成功をあまり得ていない者たちだ。そしてこれについても、この映画の主人公二人もそうであった。そう考えると、切通さんはあるいは、鬱屈が強かったものの、行動力や根性があってきちんとやるべきことをやり遂げ正しい年の取り方をし、成果をあげて地位を築いたことで、発信者としてのバランス感覚を得たのだろうか、等と考えたりした。
映画のインタビューとして主演の深琴さんが大槻ケンヂさんと対話している記事をチラッと見て、やはり彼のような人が注目する映画であり女優であるのだなと、腑に落ちるような納得を得たのだが、大槻さんにしてもそのタイプかとおれは認識している。
ここで自分の話になるが、十代から病気漬けで十五歳のとき「オメーのビョーキは生涯なおらない可能性あるから覚悟しろや(意訳)」と言われ事実その病気を引きずり続け、現在に至るまでほぼ一切の成功体験がないおれは、この主人公たちのように平素全くそれを見せずにおとなしやかに過ごしているが、実は彼らと共通するところもある強い憤りや怒りや復讐心(逆恨み)の感情ばかりが澱のように募っているのも否めない。そして、この映画で不思議な感覚を得たような多彩さや、切通さんや大槻さんから見るようなある種の溌剌さやスムーズなバランス感覚と言ったものは全く持っていない。
自らにスマートな知性や社交性といったものが全くないから、異常でありながら破滅的ではないファンタジックな描き方に、何か混乱したような不思議な気持ちになったのかもしれない。
静かな怒りや復讐心、そして、成人らしいスマートな知性やバランス感覚。その一対の事象は、一方は僕が大いに持っている物であると同時に、もう一方は僕が全く持っていないものだった。だから、持てる復讐だけに突き進みその反社会性から破滅していく映画でなかったことにーーー持たざるスマートさを持ってロマンティックにさえ描かれたことに、僕の理解が追い付かず、なぜ?と不思議な混乱を感じたのではないだろうか。頭を整理するほどに自分がおかしい感じがするのだが・・・、自分としてはそう整理してみた。あるいは変態性の中にも大人の優しさや後進への希望を感じさせる切通さんと、いくつになっても失敗だけを見続けて何もできないくせに(できないゆえに)怒りだけは消えない自分というか。
おれは怒りと憤り、悲しみと憂鬱さで鬱屈する一方であり、その結果が登場時のやや猫背で覇気のない野島のような姿だ。同時にそういう自らを情けなく思い罰する強迫観念も大いに持つ自分。おれが生ゴミかぶったり目茶苦茶になりたいと思うのはこういうところにもあるのかな、と思った。
ぼくは本当は最後、切通監督に質問してみたかった。一番最後に小さなサイレンの音がしたが、あれはたまたまなのか、夢の終わりを強く暗示したものなのか。でも僕は結局話しかけられなかった。先客がおり、それが済むと勢いよく打ち上げへと繰り出して行ったようだった。 そしておれが話しかけたかった理由は、質問について思ったことも事実だが、実はわずかであっても『その道』への、人との繋がりが欲しかったというさもしい感情があったことは否めない。否めないと言うか、それが事実だろう。おれは表現に関わりたいと思い続けているのだから。本当にさもしい嫌なやつなんだ。そして、何よりそうやって『僕はさもしいんです』と白状さえしときゃいいと思ってるんだから、投げっぱなしの本当に甘えたやつなんだ!・・・だが、じゃあどうすればいいと言うのだ!こんな、常識的な公募にはおよそ絶対に通らないような奴!
一方向にゴリゴリとしか物を考えられないおれは、延々に恵まれたルサンチマンであり、延々に成功経験をつかむことはないだろう。しかしそれは延々としても、やはり永遠とは言いたくない。おれだって自分の文字や文章に誇りを持っていて、その力を信じていないとは決して言えない。突き詰めた結果として必ず陰鬱になる自分の文章を知っているから、それに向き合うことも考えることも避けたいと思うが、しかし同時に自分の頭(思考)や文字、文章を僕は少しであれ強く信じている、意固地なほどに。そして僕に人より秀でてできる特殊なことはそれぐらいしかない。考えたことを伝えたい。だからおれの文章を切通監督や深琴さんに渡したいと思った。あるいはしじみさんにも読んでもらいたいと思って渡した。恥ずかしい驕りであるが、おれの頭やおれの書くものには、ごく一部の人には何か響くものがあるはずだと思うし、それが好感を持つ人への感想であれば真剣に綴り喜んでもらいたいとも思う。
この映画の主題の一つに復讐があるが、復讐と言えば、人生すべてが復讐みたいなもの、という場合もある。本当に嫌な、情けない話だが、病気づけで失敗した青春を過ごしたおれは、いま若い女の子と話す時たのしい復讐をしてるという思いがなくはないかも知れないし、かわいい女の子やきれいな女性と話すときにもあの頃への復讐だという思いがないとは言えないかも知れない。また、これは僕に限らずの話だし、そんな利己的なことは本当にすごく嫌なのだけど、セックスすることだって自分本意の復讐という一面があるのかもしれない。もっと言えば、生きていること自体が復讐であり、おれはしないが自殺することだって復讐という側面を持つことがあろう。突き詰めていくと、何か常々おもしろくもないおれの生命性は、それそのものが常に復讐によって成り立っているのかもしれないという根源が見えないこともなく、そんなときおれは鼻で笑ってしまうような、ほとほと白けてしまい、なんとも憂鬱でどうでもいい気分になる。そんな人間ではありたくないのだが。
映画の話に戻る。とは言えまた変な視点だが一点、僕はガード下にいたホームレスの頭の中、彼に見えている彼の世界、そして彼の背景も気になった。今や『復讐』もクソもなくなったかのように見える彼の歩みや、その背景を知りたい気がした。どうしてそこにいるのか知りたいとも思った。一言もセリフのない彼だが、彼が持っていた昔っぽい浦島太郎の薄汚れた絵本はどういう経緯でその手元にあり、なぜわざわざ持ち続けていたのだろう。小さいころやさしい母親が買ってくれたもの?ゴミ置き場で見かけて何か懐かしくなって拾ってみた物?そりゃ想像しすぎだし、そもそも映画のストーリー上必要だったからと言えばそれまでなのだが。しかし、どんなにセルフネグレストを決め込んでも、生きている限り、あの状態で不満や悲しみや復讐心(逆恨み)がなくなることはないとおれは思うが、どうなのだろう。実際に見たのか忘れたにも関わらず、僕はあのホームレスの目、その演者の妙な目力も印象に残った。
最後に、映画は本当にとても見ごたえがあった。おもしろかった。想像した一直線の暴走発狂映画とは違ったが、それは切り取り方の違いによるもので、こちらには温かみと感傷があった。おれが普段あまり近づかないロマンティックさまであった。それにより、暴走だけだったら得ることのなかった不思議な感覚も与えられ、より深くものを考えさせられた。
明確な不満や後悔を昇華する作業において、単なる破壊ではなく、このような優しさをも持って挑むこと、あるいはそれは、それこそ人間らしい強さであるのかも知れない。実際の生活で犯罪的な破壊による昇華はできないし、するべきでもない。だからそういう発狂映画も僕は好きだが、それらは気晴らしやガス抜きにしかならないという見方もある。ならば実生活では良くも悪くも妥協するか、あるいは優しい昇華が必要であり、その優しい昇華の在り方(例えばロマンティックやファンタジー)について考えさせられたりもした。マイノリティの前提があり、その憤懣を異常行動で表現し発狂的に描きながら、それだけではない柔らかさや温かさを持つ。今まであまり考えたことのなかった意識や考え方について思考させられた。
そしてこの映画は、おれが自分の作品でもやりたい、実際の人生でもやりたい、そう思うこと、思っていたことをたくさんやっていた。汚水やペンキを浴びることはもちろん、内面を吐き出したり、吐き出すことを強要すること、そういうえげつなさと、それによる深い結びつきという、自分自身も強行しがちな嗜好性の執拗さには引き付けられた。「キラキラした青春なんか壊してやる!」という深琴のセリフは、見る者によれば逆恨みであろうが、おれは大多数が否定したとしてもそれに共感するし、そういうことを思う人を肯定してあげたいとも思う。映画の青井深琴は実際のおれの恋人ではないから『できるだけ肯定したい』という思いだが、これがもしおれの恋人がそう言うのなら、―――そしてその恋人とおれがえげつない内面の吐きだし合いの上に、ぐちょぐちょに変態的に美しく結びついていればいるほど、おれはその他一般一切の敵を否定しても、それを絶対に絶対に肯定したいと思うし、するだろう。そういう場面に遭遇したら、こんなことを言うのは恥ずかしいが、ぎゅうっと強く抱きしめたいと思うだろう。そういうおれに対して、彼女は「何もわかってない!」「独りよがり!」等と罵倒するのかも知れないが。
そして、とにかくおれも、たのしくてしあわせな目茶苦茶がしたい。しあわせを感じたい。映画を通してそんなことを考えた。
2項・映画を見る前の話。
野村 航
11月28日 1:18
上野のオークラ劇場で『青春夜話』という映画のチラシをもらって、見に行きたい感じがした。おれは『君の名は』も『打ち上げ花火、上から下から』も全く興味がわかなかった、というか嫌いに思えた。もっと正直に言えば敵意を感じたんだけど、『青春夜話』のチラシを見た時は、すぐに”あ、これ気になる”って思った。女の子のはだけた背中の色使い、そしてチラシに『君と一緒に青春のやり直しをしたいんだ』。『わかった、復讐でしょ?』。それで、”あぁこれは…”って思って。よく見ると、この映画はアニメではなかったんだけど。
で、ちょっと見てみたら、監督が切通理作とあった。おれは切通さんってそんなによく知らないんだけど、ぼくが好きなものの紹介者等でよく出てくる人なんだ。識者っぽいんだけど、すごく変な方向にも精通してて、村崎百郎さんへの追悼でも文章を書いていた。で、また名前が出てきたから、『あ、またこの人だ』って。他にも自分の知る人を介して話題に上がって、驚くような、やっぱりって感じたり、なんか嬉しいような気がしたり。
見てみたいけど、おれ自身失敗して復讐したい側だから、なんか感傷的な辛い気持ちになるかな。それともスッキリするだろうか。つーか、このバカがスッキリすることってあるのかな!?(笑)
都合が良かったら見に行こうかな。復讐なんて逆恨みじゃんってのはナシだから。それは物の見えない成功者側の理論。簡単にそういうことを言える、心も何もない薄っぺらは黙っていい生活してろ。おれらに関わってくんな。どんなに頑張ってもダメなやつもいるんだ。犯罪はダメだけど、芸術の表現でやる限り、ガタガタ文句言われる筋合いは絶対に絶対に絶対にない。
3項・主演女優の深琴さんのこと
野村 航
11月29日 13:23
先日たまたま見かけたチラシの映画、期間中は毎日、切通監督が登壇するそうで、ゲストも出演者の他にも非常に多彩です。内田春菊も来るのか~。
僕は主演の深琴さんのインタビュー記事を読んで、この人がどんな話をどんなふうにするのか、見聞きしてみたく思ったので彼女が登壇する日に見に行ってみたいと思いました。表面上、ぼーっとしたような、おとなしい感じも受けるけど、結構怖い人(熱い人)なのかなと感じました。おとなしい人やフワッとした感じの人ほど、根が強情だったりもするような。 深琴さんは3510屋(みことや)という映画サークルもやってるそうで、そこでは相当フェティッシュな映像を撮ったりもしてるみたいで、機会があったら見てみたいな。おれは普段、強迫観念的に汚れとか気になる方なのだけど、なぜか、それとも、だからこそなのか、逆にもう目茶苦茶にぐっちょんぐっちょんになるのは、なんだかとてもスカッとして楽しそうなような、心を惹かれます。特段やったことはないから、実際やったらどう感じるか、もしかしたらおじけづくのか、その辺は良く判らないんだけど。すぐ下のリンクがインタビュー記事です。
野村 航
12月1日 0:52
先に書いた深琴さんの3510屋の動画がYoutubeにあったので見てみた。発狂きちがい系をやってるのかなと思ったら、全く違くて、美的で細やかな表現方向だった。グチョグチョをとても丁寧に描いた繊細なもので、映像の表現スキルの高さもすごいなと思った。
前半から中盤の女性だけでやっているのが特に好きだった。私的な想念を表現するかのように自ら行うその行為は、自由さがあるし楽し気で美しさを感じる。単純に面白いとも思う。きれいだし、多幸感もあり、やっちゃえやっちゃえっていう楽しい気持ちになる。虫もすごく良かった。小さな虫にも、ただ大量に擦り付けるとかではなく、かわいさのような物や個体としての存在感まであった。
また、ケーキを擦りつけ紅茶(?)を頭から被るのはとても楽しそうで、ペンキを流すのも興味深い。僕は強迫性障害で汚れ(と感じるもの)に対して強く気になったりする方なのだが、その感覚とは真逆に、目茶苦茶に汚れてみたい感情もあるみたいで、だからそういうのは勇気はいるが羨ましいと言うか楽しそうな感じがした。
そんで、こういうのを見ていると、やっぱりおれも生ゴミぐらいかぶらないとダメなんじゃないか、負けなんじゃないか、って思ったりする。それは勝負であり復讐なのだろうと思うのだけど。
それとちょっとこれとは関係ないが、植木鉢あたまで割れるかなと思って、少しテストしてみたけど割れなかった。割れるまではまだかなり衝撃がいりそうだったけど、それでも結構いたかった。
4項・本感想文を書く前の日記
野村 航
12月5日 1:14
疲れなのかなんなのか、全然頭が働かない。僕が一番やりたいことは文章を書くことのはずだし、書きたいことがあるのだけれど、ここで無理やり頭を働かせると、また眠れなくなる。
頭を働かせて、考えていることをきちんと言葉にし、文字に起こして、文章を組み立てないといけない。ろくに口が利けないぶん、なおさら。
大したことのないお仕事から帰って、用事をすませ、なんとか少しづつ文章をつづっている。いま書いているのは青春夜話を見た感想。僕が映画をみて混乱した理由とかをざっくり書き出してツイートした短文集。それを整理して肉付けしたり。しかし、これが本心なのか、露悪的なものなのか、肉付けするほど釈然としない部分が増すような。またいつも通り、苦心しながらババを引く文章になっている気もするんだ。
書いても書いてもババを引くだけなら、もうなんつーか…。いつも自らババを引きに行く。なぜそうなるのだろうか。でもおれは前も書いたけど、自らドブに落ちるのが好きというか、どうにもそうなる。しかし、嘘をつきたくないことと、自らババを引いて損をしに行くのは違うと思うのだが。
なんだか話がそれてよく判らなくなってきた。
ただ僕は文章を書きたいんだ。自分の綴る文字の力を少しは信じているし、ほんの少しいる、僕の文章を少しであれ好んでくれる人に伝えたいし、―――それに、そっぽを向かれて忘れられたくないんだ・・・。またババを引くのか?本当に馬鹿だなお前。・・・そんなら他にやることあるだろう。でも文章や、あるいは広く表現を、いまだに将来に繋げたいんだ。努力が足りないとか力が足りないとかあるけど、それが事実なんだから仕方ない。
頭を働かせて、考えていることをきちんと言葉にし、文字に起こして、文章を組み立てないといけない。むかしより、やりたい気がする。だから、あしたも明後日も書かないといけない。
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