ありがとうロックンロール 内田裕也さんについて (レコードコレクターズ2019年5月号掲載)
内田裕也は日本のロックとロック文化の源流の5%を担っています。これが5%なのは、日本でクソクラエ的なロックを必要としている人間がそれ位しかいないからです。あとの残り95%は『はっぴいえんど/細野博臣』です。山下達郎やYMOなどとも繋がっていく路線です。僕はそれらも嫌いではないですが、しかし常識外れの5%の方が断然に好きです。僕にとってのロックって、一番には熱い思いを持った異常者の出す目茶苦茶な汚い音だからです。
内田裕也の成した功績が一般社会的には何だか良く判らない感じであるのは、彼がアンチメジャーだからです。アンチメジャーで「ふざけるんじゃねぇよ」の破天荒で貫いた場合、それは多数派が大手をふるう表社会では理解を得られるわけがないのです。逆に言えば、耳触りの甘い良識的なメロディに友情とか絆とか夢など健全な詞を乗せている人たちは世間に名が広まり、果ては卒業ソングになって皆で合唱されたりします。そういう歌もあったっていいです。でもそれはロックじゃない。逆説の皮肉でやっているとでも言うのでなければ、それはロックとは関係がない人たちのやっている音楽です。だからこそ世間の理解を得られるのです。
なのでそもそも「内田裕也なんてヒット曲ねぇじゃん(笑)」なんて言って揶揄しているのは、そもそも自らが表社会側で安生よろしく生きていやがるロックと関係のない人たちなんです。…言い方がきつかったかも知れない。ロックと関係ない所でも、大変な思いをしながら生きている人はたくさんいます。しかし、そういう、ロックを知らない、ロックに関係ない所で生きている奴らが内田裕也のことを揶揄して舐めたこと言ってんじゃねぇ、黙ってろクソが、と僕は心の底から思うんです。
ルースターズやミッシェル・ガン・エレファントやギターウルフやザ・スターリンや、そういう人たちが内田裕也をないがしろにするとは到底思えません。結局のところ、極北にいる人間のことは、説明しても理解できない人には一生理解できないような気もします。
彼にとって樹木希林さんの存在は本当に大きく深いものがあったと思います。ただ、彼女のおかげで内田はなんとなく名声を得ているみたいなことを言う人は内田のことも樹木希林のことも何も知らないのではないでしょうか。樹木希林だってそんな風に言われるのは本望じゃないはずだと僕は思います。樹木希林は単なる良いおばちゃんなんかじゃない。強い人です。テコでもあの内田と別れなかった。なぜなら「彼にはひとかけらの純な所があるから」。自分勝手な内田の中にいっぺんの純な所を見抜き、異常者相手に奇天烈な婚姻生活を死ぬまで続けた樹木希林はすごいです。そして、彼女をそこまで思わせたのが内田裕也なのです。
内田自身、ある時期からは一層に独特な強い繋がりを意識しただろうし、特に晩年は感謝していたことでしょう、そこまで思われているということを。その思いのたけは僕にとって理想であり羨望であり、そこまで思われた内田裕也を羨ましく思います。それゆえに死に目を看取れなかったのは悔いが残っていただろうし、死後半年で彼も逝ってしまいました。もちろん『長生きしたら相手を思っていなかった』なんてことではないですが、ただ、死後半年で逝ってしまった彼が彼女のことを思っていなかったとは到底思えない。本当だったら内田が先に死んで、それを樹木希林が看取り、彼女は朗らかに笑いながら「あの人は大変な人でしたよ、なにせロッケンロールの人ですから、ほっほっほ」等と言いながら長生きするような形が一番よかったのにな、なんて、そんな勝手なことを思ってしまいます…。
話は内田の音楽など表現活動のことに戻りますが、彼は1950年代からロカビリーとか喚き散らしてたのだから、同時代的には日本では相当浮いていたことでしょう。ビートルズのデビューが1962年です。彼の甲高い声はロックンロールにとても合っていました。ああいう声のシンガーを僕はあまり知りません。また、一応ここに書いておくと、彼の功績には外国ミュージシャンの招聘であったり、英米が先駆けていた先進的なロックを日本人にプロデュースしたりと言った面もありました。フラワー・トラベリン・バンドを聴けば、彼が海外を取り入れ日本の先端を走っていたことはすぐにわかります。その暴虐武人なイメージとは裏腹に裏方的な能力の高い人でした。
映画俳優としても一種独特な存在感がありました。正直あまり演技がうまいとは思わなかったのですが、しかしとにかく、全身から「おれが一番かっこいい」「文句あるか」「文句なんかあるわけねぇよな」「文句あるなら潰してやる」「くそったれが」と、そういう類のことを心から思っているという、そういう雰囲気が全身にみなぎっているのです。特別に背が高いとかガタイが良いとか、あるいは超二枚目とかいうわけでもなく、なおかつ棒読みみたいなセリフを発しながら、そういう自信と緊張感をバンバン漂わせている。その姿に、この人はどうしてこんなに確信があるのか、どうしてこんなに自信満々なのかと不思議になったものですが、彼はそういった自ら発する空気によって周りを飲み込み、彼の思考を現実化してしまうのです、かっこいい、文句ないッス!、と。映画に限らず、詰まるところ全てが、そういう人だったのではないでしょうか。彼の強い一念と行動力で、下らない現実などは「オラァ!!」と動かし、思考を具現化するのです。
傍若無人な人柄により嫌な思いをした人も少なくないでしょう(希林さんも含め)。前科も付きました。でも、芸術家っていうのは元来自分勝手でわけがわからないものです。偉人とかもそう。一般の尺では測れないのです、異端者なのだから。芸術家であり、ロックンローラーなのだから。
こういう人に近づくのなら、それはもうどこまでも付いていくか、さっさと逃げるしかありません(その内田を『逃がさなかった』ところが樹木希林のすごい所です)。傍若無人で自分勝手で傍迷惑なところも多大にあるから、一緒にいれば嫌な思いをすることも当然なのです。それでもいいと喜んでババを踏む人間だけがその場を共有でき、ふつうでは見られないものを見ることができる。
異端者、ロックンローラーとは常識の埒外にいる者であり、確信を持ち不変の存在です。そういう意味で、彼は間違いなくロックンローラーでした。世間一般では『何の功績があるのか良く判らない、ヒット曲もないのにやたら偉そうにテレビに出てくる変なじじい』という評価も一部持っているのも、ロックンローラーだからこそです。社会一般になどそもそも理解の及ぶところではないから、そういう『よく判らない変な人』という評価になるのは必然で、実際は笑っている者こそ底の浅さを晒しているのです。本気でロックに生きて、反抗し、四方八方にかみつきやりたいことをやっていたら、世間に理解されることなどそもそもおよそ不可能なのに、それでもあれだけの知名度があったことがすごいのです。
むかし読んだ東陽片岡の漫画で、「勝新が死んだのに仕事なんかしてられるか!」とわめくオッサンが、嫁に「勝新が死んだ勝新が死んだと言って半年も酒飲んでいるだけじゃないか!!」と罵倒される漫画がありました。内田裕也にも同じことをさせる人間性があると思います。本当に喪失感があります。内田裕也のロックンロール好きだったのに、聴いていたら悲しく辛くなってしまいました。早くまた、「うぉー!!」という気持ちで聴けるようになれたらいい。悲しいです。内田裕也はメチャクチャでカッコよかった。キザな笑顔と尖った態度、あのしぐさや声、自信と確信に満ちていてカッコよかった。あこがれた。類まれなる人だった。追善の思いです。
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